2026/09/04
恩人たちの命日

前回の日記の最後に、「気がつくと、私にとっての人生の恩人といえるような人たちよりも長く生きている」と書いた。
これを書いたときに頭の中にあった恩人たちとは、井津
佳士先生(聖光学院の国語教師)、片柳治さん(雑誌「すばる」編集長。私の『マリアの父親』を拾い上げてくださったときは副編集長)、永井明さん(医師・作家。私が作家として干されているときに穴吹さんを紹介するなど、なにかと助けてくださった)、穴吹
史士さん(週刊朝日などの名物編集長。社内で干されてデジタル編集部に左遷された後に知り合い、私をAICの連載陣に加えてくださった)、松下竜一さん(作家。『草の根通信』発行・編集人。私も連載の枠をいただき、しばらく書いていた)……といった方々だ。
みな古稀を迎えることなくこの世を去った。
70代に入ってもまだこの俗世間で楽器やら車やらを買ってどうのこうのと日記を綴っている自分はなんなんだろう、と思う。
助手さん曰く「ヘロヘロっと生きないといけないのよ。でも、惚けたらダメなのよ」
ふと気になって、恩人たちの正確な命日と没年齢を確かめてみた。
- 井津佳士 1994年5月23日 60歳
- 松下竜一 2004年6月17日 67歳
- 永井明 2004年7月7日 56歳
- 片柳治 2005年6月16日 55歳
- 穴吹史士 2010年3月9日 63歳
改めて確認してみると、永井さんや片柳さんは50代半ばで亡くなっている。永井さん以外の4人は、最後は病院での闘病生活だった。
医師である永井さんは、自分が癌であることを知った後も妻に「倒れても病院には入れるな」と厳命していたそうで、実際、倒れた後も自宅に留まり、知り合いの医師が訪問診療をする中で亡くなったと聞いている。
医師として、病院での最後がいかに悲惨かを知り尽くしていたからだろう。
私のWEB日記の中から、恩人たちのことを書いた文章をいくつか抜き出してみる。
井津佳士先生
『新緑』発刊によせて
闇の世界は闇の中にあります。闇の中に灯りをつけると、その瞬間に闇は消滅してしまいます。闇夜にともる一個の電灯は、まだ闇の風景の一点景ですが、ネオンサインやサーチライトの光の氾濫する都会のまっただ中には闇の風景はありません。そこに住む子供たちには闇夜は存在しないのかもしれません。
テレビとCMの時代の今日は、すべてのものが可視光線と喝采の中にあるといえなくもありません。正しくは、可視光線と喝采の中にあるものが、存在するもののすべてだと人々は思っているというべきでしょうが。これが価値あるものだ、美しいものだ、真実なものだと一方的に伝えられ、人々はそれを喝采をもって迎えます。喝采されるものが真であり、美であり、善であるという錯覚も生じます。こうして、可視光線と喝采の中から生まれてくるもののほとんどがインスタントな文化であり、思想であることは、心ある人ならだれでもが認めています。
若者は性急です。インスタントな文化や思想は、そのまま性急な若者に受け容れられます。若者はまた性急なるがゆえに脆弱です。彼らは集団の力をたのみます。集団の喝采は彼らにとってこの上ない力です。
文化のいとなみは、一面、自分の生きている時代に言葉を通して懸命にかかわってみることでもあります。その意味で時代の思想とは無縁ではありません。ところが、その未来は、若者が考えたとおりには動いてこなかったし、いま集団で絶叫し、集団で喝采してみたところで、それが可視光線の中で生まれたインスタントな思想である場合はなおさらです。やがて人々にあきられ、無喝采になったときに、なお自分の思想を世の圧力に抗しながら主張し続けることができるだろうか。「人間の根の強さだけが、そのときものをいう」と、当代随一の気骨家金子光晴はいう。われわれは、この老詩人の不屈の精神に学ばねばならないときにきているのです。
光と喝采はなくても、いや、ないからこそ闇の世界は厳然と存在するのです。そして、その闇の世界にこそ現代の見失ったものがあるのです。闇の世界の真実は、闇の中に住み、手探りで、自分の足で闇の世界を生きていくことによってのみ発見されるのです。
(一九六九 一二/一九)
これは、私が中学2年生のとき、同級生の工藤くん(現・聖光学院校長 工藤誠一氏)が作った「文芸同志会」なるサークルの同人誌創刊号に寄せて書いてくださったもの。
AI時代の今から60年近く前に、すでにこのように看破していた井津先生の慧眼と、「闇の世界の真実は、闇の中に住み、手探りで、自分の足で闇の世界を生きていくことによってのみ発見される」という覚悟の表明。当時中学2年生だった私にはとうてい理解できなかった言葉を、70代の老人になった今、改めて噛みしめている。
↑母校聖光学院の校友会報(1992年1月)に書いた受賞後の挨拶文↑
レコードデビューに失敗し、この人間社会のありかたに失望し、未来に対して何も期待できなくなって鬱になりかけていた30代前半、私はふと井津先生のことを思い出した。
人類が初めて月に立った(とされている)1969年7月、そのニュースに世界中がわいている中、井津先生は国語の授業の冒頭でこう言った。
「どうなんだろうね、あれ。
これから先、俺たちはずっとお月様を、あそこにゴミが残されていると思って見上げなければならないんだよな」
この発言にほとんどの生徒はポカンとしていたが、私の中には強烈な記憶として残った。
そういう発想があったのか。ものの見方というのは複層的であり、視点を変えればいろいろな答えが出てくるのだと学んだのだ。
人間にとって、月は科学技術で「征服」する対象なのか? 長い人類の歴史の中で、月はもっと豊かで複雑な価値を持っていたものではないのか?
その先生に、30代になった私はいきなり長文の手紙を書いた。
先生は負けずに長い返事をくださった。その手紙の最後に、こんな一節があった。
私は音楽の世界のことはほとんど知りませんので、何も言えませんが、素人なりにきみの音楽に東洋的な静謐さを感じました。(略)きみの「四畳半の音楽活動」は、すばらしい意味を持つように思われます。専制政治家のように大衆にはたらきかけることを、私はあまり評価していません。それはおそらく空しいことであり、時に害悪でさえありましょう。
私は「一人に向かって」をモットーに生きていくことにしています。その方が結局は普遍性を獲得すると思います。こうして、きみ個人に向かって長い手紙を書いているのもそうだし、学年全体の生徒に話すときでも「一人に向かって」話すつもりで話すようにしています。「九十九匹の羊を置いて一匹の羊を探せ」というキリストの逆説をこのように応用しているわけです。
経済的な価値観では数の多いことを価値あることとしますが、数が少ないほど価値のある世界というものがあることを私は信じています。成績不振の少数の生徒、クラスでいじめられがちな一人の生徒、精神分裂症の一人の教え子、文学好きな一人の少年、特別養護老人ホームの一人の老人、障害者同士結婚した一組の若い夫婦、といった人々に向かってじかに話しかけます。
このじかのつき合いほど重たいものはありませんが、嘘のはいり込むことの少ない世界ですから、私には向いているように思います。
先日も、生徒たちと一緒に作った手づくりの紙芝居をもって特別養護老人ホームへ行ってきました。心身障害者が多く、彼らの半数ほどはほとんど人間的な反応を示しません。
拍手喝采を受けないのですから、ある生徒は、やりがいのなさを感じたかもしれません。しかし、大切なことは喝采の物理的な音量ではないのです。数字の多さ以外の何かが尊いのです。その何かをじかに感じればよいのです。それを言葉で規定する必要はありません。
きみの音楽活動が私のこんな考え方に幾分でも接点を持ちうるものでしたら、陰ながら声援を送りたいと思います。この考え方は、きみが有名になることを妨げるものでは決してありません。少数の人に向かって語りかけた結果が、多くの人に認められることになったというのでしたら、そんなめでたいことはありません。
この手紙には1991年8月の日付がある。
井津先生はその後、60歳の若さでスキルス性の癌で亡くなった。
亡くなる直前の1994年2月には「現在は、まともな作家にとってほんとうに情けない冬の時代です。紆余曲折を余儀なくされるでしょうが、初心(五木寛之さんは「志」といいましたね)を忘れずにがんばってください」というメッセージの入った短い手紙を送ってくださった。

↑死の直前、病院のベッドで書いてくださった私への手紙
先生から授かった「一人に向かって」という言葉は、自分の人生の残り時間が短くなっていけばいくほど、重い意味を持って心の中に残っている。
片柳治さん
片柳さんは、私が「小説すばる新人賞」を受賞するきっかけを作ってくださった編集者。文字通りの「恩人」だ。
「小説すばる新人賞」受賞のきっかけとなった葉書。
上は、片柳さんあてに私が原稿を送った直後の「受け取りました」という葉書。
下は、読みました、という葉書。
この当時のことは、
2013年の日記に書いてあった。
片柳さんはこの後、なんとかこの作品を「すばる文学賞」の最終選考に残そうと編集部内でいろいろ骨をおってくださったのだが、彼以外にはほとんどこの作品を評価してくれる人がおらず、すばる文学賞は選考会にも進めず、敗退となった。
そこで急遽、娯楽小説ジャンルである「小説すばる」の新人賞への応募に鞍替えしたのだが、これも、編集長はじめ、上の人たちからは「全然意味が分からん」「どういうジャンルなの? これは」と冷たい反応。
そこに、たまたま女性誌から副編集長として異動になってきた須藤さんという女性の編集者が片柳さんから「これ、面白いから読んでみて」と勧められて一気読みし、渋る編集長や部長を相手に、若手編集者たちをなんとか味方につけて最終選考まで残してくれた。
それでも『マリアの父親』は当て馬というか、候補作の中では最も受賞からは遠い存在としてほとんど無視されていた。
ところが選考委員の一人、田辺聖子さんが大阪から選考会のために上京し、羽田に下りて開口一番「今日はたくき よしみつで行きます」と発言して編集部は「誰だそれは?」と大騒ぎ。
……そんな裏話も、もう四半世紀近く経つから書いてもいいだろう。
(2013年9月28日付けの日記より)
葬儀には多くの作家や文芸関係者が集まっていた。
最後は、見舞いに来る人たちに「仕方ないですよ」と笑顔で語っていたという。
新人賞受賞後、編集部内でのいろいろな事情などもあって、私がなかなか本を出してもらえなかった時期にも、片柳さんは「私だけは最後までたくきさんの小説の読者です」と言ってくださった。その言葉は、今でも大切に心にしまっている。
松下竜一さん
井津先生からの最後の手紙に出てくる「草の根通信」とは、作家の松下竜一さんが出していた月刊紙。一時期私もそこに連載エッセイを書いていた。
松下さんは私が「原稿をプリントアウトして……」などと書くと「『印刷』ですね!」と訂正してきたりする硬骨漢だった。
私が筆名を一時期漢字表記の「鐸木能光」に戻していたのも、松下さんの影響があったように記憶している。
社会の「木鐸」。「能力が光る」。こんなすごい本名を持ちながら、平仮名表記にするとはもったいない、というわけだ。
でも、誰も読めないんだよね、「鐸木能光」という名前。
松下さんのことは
AICに書いていた。一部を抜き出してみる。
松下さんといえば「草の根通信」。
同紙の読者の紹介で、僕は「草の根通信」に95年7月号から98年11月号まで『タヌパック通信』というエッセイを書いていた。そのすべては僕のサイトに置いてある。
原稿料ゼロ円(執筆者は全員同じ条件)で3年と4か月書き続けたのだが、最後は、我が家の家庭基盤崩壊があり、「とても書ける状態ではなくなりました」という手紙を出して、連載を終わらせていただいた。
バリバリの?ビンボー作家である松下さんの目には、なんと軟弱なやつだと映ったことだろう。
恥ずかしながら、この連載を引き受けることになるまで、僕は作家・松下竜一も、草の根通信の存在も知らなかった。書き始めてから徐々に、すごい硬派作家なのだなあ、とか、読者もみんな筋金入りなのだなあ、などと知っていった。
かなり堅いことを書いても、僕の文章は草の根通信の中では柔らかいものに属していた。(いちばん軟らかいのは、松下さんの文章だったけれど)
今思えば、怖いもの知らずで書いていたような気がする。
一度だけ、大分県中津市のご自宅を訪ねたことがある。
お袋が突然、大分在住の古楽器製作者に会いに行くというので、その運転手として同行したときのことだ。大分にまで行ったら松下センセ(松下さんはご自分のことをこう呼んでいて、周囲の人たちも「先生」ではなく、親しみを込めて「センセ」と呼んでいた)に会わないわけにはいかないだろうと、図々しくも押しかけたのだ。
評判通りのボロ家(すみません! でも、家全体が傾いて、その歪みに合わせて窓を平行四辺形に組み替えたまま15年以上経つ我が家といい勝負です)、5匹の犬、美しい年下の奥様……。
いつも午後は犬たちと河原を散歩するのが日課だと知っていたので、その散歩にも同行させていただいた。
川の土手までくると、犬たちの縄を一斉に解いてやる。犬たちはそれぞれ勝手に走り出し、川の中に入ってばしゃばしゃやったり、土手で追いかけっこしたり、本当に楽しそうにしていた。
河原にケロッピ?のビニールシートを広げ、そこに奥様と一緒に座って犬たちをニコニコ見守る松下センセ。
毎日変わることのない松下家のこの「行事」が、なんだかすごく崇高なものに見えた。
松下センセは、ビンボーをトレードマークにして、一種あっけらかんと生きていらっしゃった。草の根通信の連載エッセイも、本になったときは『底ぬけビンボー暮らし』というタイトルだった。もちろんそれは、編集者が、嫌がるセンセを説き伏せて無理矢理つけてしまったタイトルなのだけれど、それもこれも全部受け入れてしまうセンセの生き様は、やはり凡人には真似ができない。
本が売れない現代では、作家を取り巻く経済環境はどんどん厳しくなっていて、今では娯楽小説を専門にしている作家でさえ、小説だけで食っていける人はあまりいない。みんな副業を抱えながらなんとか生き延びている。
松下センセは最後までそうした器用な生き方を拒否していた。文章で食えないなら仕方がない。死なない程度にビンボー暮らしに慣れてしまえばいいという生き方。
これは僕には到底真似できなかった。いや、もちろん真似したいということではない(真似しなくて済むならそれにこしたことはない)。
ただ、経済的に追い込まれたとき、どう切り抜けるかで、作家の品性のようなものが問われるということは、いつも考えていた。
食えない作家はどう生きるべきか?
松下センセが僕に突きつけたテーマは、まさにそれだった。もちろん、センセにはそんなつもりはさらさらなかっただろうが、センセの生き方を見ている人間は、否応なく、自分の姿との違いを意識させられてしまうのだ。
- 1)書くものの内容を、外部からの要求に合わせて需要を増やす
- 2)書く内容を媚びないために、とりあえず他の食い扶持を探す
- 3)作家という職業を諦める
松下センセは、そのどれもを拒否していた。
実際にお会いして話していた時間は短かったが、その中でひとつ印象に残っているのは、センセにこのことをストレートにぶつけて訊いたときのことだ。
「いやぁ、私は周りからそういう風にうまく祭り上げられているだけですよ」
清貧作家とか環境保護運動の闘士といったイメージは、自分自身では意識したことは一度もない。周囲が勝手に押しつけたものだ。でも、そういう役割を果たす人間が必要なのであれば、環境保護運動の闘士に祭り上げられたり、清貧作家というレッテルを貼られたりすることに、無理に逆らうこともない。
そんなようなことを、笑顔で、淡々とおっしゃっていた。
たった一度だけだったが、松下センセの生の声に接し、センセの人間像の一端をかいま見られたことは、僕にとって大きな宝になっている。
金を得ることと表現すること。この二つがかみ合わないとき、どう対処すべきか。
僕にとっては、死ぬまで答えが得られない、難しい宿題になっている。
(2004年7月6日掲載のAIC 「草の根通信と松下竜一さんのこと」より)
永井明さん
2004年は恩人が次々と亡くなった年だった。
永井明さんへの追悼文も、
AICに書いている。
長くなるが、全文を転載してみる。
9月5日、船の科学館で、永井明ドクターを送る会があった。
亡くなって2か月以上が経つが、いまだに僕の気持ちの中では永井さんの死がうまく消化できていない。
永井さんご自身は、この春くらいから死を覚悟されていたらしい。臨終を看取った医師仲間のかたや、奥様のお話からは、「覚悟の死」であったことがうかがえる。でも、最初に訃報を聞かされたときは、まさに青天の霹靂。最初は同姓同名の人のことかと思ったほどだ。
永井さんは、僕にとっては本当に不思議な人だった。直接お会いしたのは数回しかない。その1回1回を、時間を遡って思い出してみる。
初めてお会いしたのは、1992年の暮れか93年初めのこと。
都内の高そうな料理屋で、集英社の担当編集者夫妻と永井さん、永井事務所の名物秘書・浦井さんの5人で食事をしたとき。
きっかけは、永井さんが、僕にとって(今のところ)最初で最後の文庫本『雨の降る星』(絶版)の解説を書いてくださったことだった。そのお礼を兼ねて、編集者がその席を用意してくれたのだった。
『雨の降る星』は、某映画会社制作映画の「原作」として92年の初夏に依頼され、夏に一気に書き上げた小説だった。その映画会社の社長が息子に代替わりし、それを機に新社長が「社会派映画」を作るのだと燃えて、最初に「エイズ映画」を作るということだけが決まったらしい。
その原作がほしいというわけだが、実は脚本は別途書かせているという。脚本をノベライズするより、最初から小説としての原作があったほうが箔がついて宣伝もしやすい、ということらしい。「主人公が若い女性でエイズになる」という条件さえ満たしていればどんな内容でもかまわない、という、実に荒っぽい注文だった。
僕はこの仕事を引き受け、夏の間に書き上げて提出したのだが、そのときには、別の有名な「ドキュメンタリー作家」のルポルタージュを「原作」とするという話がまとまっていて、僕が書き上げた作品は宙ぶらりんになった。
それが文庫書き下ろしという形で出たのが年末のこと。文庫には解説が必要だというので、永井さんにお願いしたのだった。
これも、もう時効だと思うので告白すれば、別の大物文芸評論家に断られた末の依頼だった。当然、僕は右も左も分からないひよっこだから、解説の人選などは編集者に任せっきりだった。
「永井明さんがやってくれることになったわよ」
「ああ、よかったです。で、どういうかたなんでしょうか」
「あら、知らないの? 『ぼくが医者を辞めたわけ』がベストセラーになったじゃない。医療つながりってことで……」
『ぼくが医者を辞めたわけ』という本が売れているということも、そのときに知った。
その次は、永井事務所の忘年会に呼んでいただいたとき。多分、1993年末だと思う。
その席で、漫画家の福山庸治さんや、映画監督の大森一樹さんを紹介された。
その忘年会で、僕は福山さんと一緒に「売れない漫画家と売れない作家」と紹介された。僕は高校生くらいのときから福山さんの漫画は読んでいて、好きな漫画家のひとりだったので、僕の中ではその忘年会の中では福山さんがいちばんの有名人だった。その「有名人」と一緒に「売れない作家」と紹介されたことは、むしろ面はゆかった。
それがきっかけで福山さんとはメールのやりとりをするようになり、しばらく一緒に遊んでもらった。
その次は、四谷三丁目のピアノバーみたいなところで、大野雄二トリオを招いたパーティに誘われたとき。落語家・柳家小りん、編集者・穴吹史士、作家・永井明の「快気祝い」というふれこみのパーティで、永井さんはなんと「恋煩い」からの快気ということになっていた。
ちょうど僕が仕事の上でどん底にあったときで、会費の1万円が、かなりの覚悟だったのを覚えている。
大野雄二さんは僕が大好きな作曲家のひとりで、昔、ビクターから一瞬デビューしたときには、大野さんの作曲した「丸井からありがとう」というキャンペーンソング(クレジットの丸井が創立20周年だか25周年だかの記念に作った歌)を歌ったこともある。ベースの鈴木良雄さんも尊敬するアーティストなので、純粋に音楽を聴きに行った。

永井さんに誘われたパーティでベーシストの鈴木良雄さんと。写真提供:福山ヨジラ庸治さん
その席上で、このAICをひとりで切り盛りしている穴吹さんを紹介していただいた。それがずっと後になって、AICで書かせていただくきっかけとなっている。
その次はかなり時間が空く。福山庸治さんが『F氏的日常』(「週刊ダイヤモンド」連載、河出書房新社で単行本化)で第5回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞したときのパーティで。2年くらい前だったと思う。
永井さんは少し遅れてやってきて、福山さんにおめでとうと声をかけた後は、パーティがお開きになる直前まで僕と一緒に話をしていた。
「そろそろいい頃合いかな」と耳打ちされ、二人で会場を後にした。
「たくきさんは相変わらず売れないねえ」というような話をしながら駅に向かった記憶がある。
最後にお会いしたのは昨年末、新宿二丁目の飲み屋で。そのときはごくごく普通に、焼酎のミルク割りを楽しんで、電車がなくなる時間まで話していた。
この飲み屋は新宿二丁目にありながら、珍しくそっち系統ではない「普通の」飲み屋で、女将(ママ)さんは集英社の元編集者らしい。
この店は、僕にとっては特別な店になっている。
15年前に「小説すばる新人賞」をいただいたとき、編集者に初めて連れてこられたのがこの飲み屋だった。そして、その編集者に数年後、「ごめんね。あんたをこれ以上面倒見られなくなったの」と、事実上の放り出し宣告を受けたのもこの店。
そのとき、やりとりを聞いていた女将さんが、帰り際、会社の後輩でもあるその女性編集者を、珍しくきつい言葉で叱責していたのを覚えている。
永井さんはその店の常連だった。
昨年末、どこかで飲みましょうという話が出たとき、この店を選んだのは永井さんだった。
恐らく、これが永井さんと直接お会いしたすべての「記録」だと思う。
5回?
数えてみると、たった5回しかお会いしていないことに気づく。しかし、なんと「効率」のいい5回なのだろう。どの回においても、必ず誰かと縁結びしてくださっているのだ。
永井さんは、飄々としていながら、常に他人のことを気にかけていたのだということがよく分かる。
今、僕がなんとか物書き仕事を絶やさずにいられるのは、永井さんのおかげである。永井さんと知り合えなければ、もっとずっと前に執筆者生命を絶たれていたことだろう。
さっぱりしていて、酔っても最後まで笑顔が絶えない。大野雄二トリオのときも、終電に間に合うかどうかきわどかったところを「たくきさん、一緒に帰ろう」と後から手を掴んでひきとめ、同じ方向とも言えないのに、タクシーに押し込むようにして送ってくださった。
おそらく、僕と同じように、永井さんにそれとなく助けられていた「売れない××」は他にも何人もいるはずだ。
永井さんの人気は、この自然体の魅力が支えていたのだろう。
送る会の席で、「でも、永井さんのポジションを埋めるような人材は出てこないでしょうね」と言ったところ、まったくそうだねえ、ということで一同納得してしまった。
軽妙洒脱な文章家は古今東西けっこういる。これからも出現するだろう。でも、書く文章と同じように、実際に身軽で、嫌みがなく、潔く生きている作家は極めて少ない。
新宿二丁目で飲んでからまだ半年しか経っていない今年7月。
東京が37度というとんでもない猛暑の日、落合の火葬場に出かけた。訃報がメールで届いたのが前日。ご本人の強い遺志で、葬儀などはいっさい執り行わないということだったが、最後のお別れをするために、火葬場には数十人の人たちが集まっていた。その中には、二丁目の飲み屋の女将さんの顔もあった。
「永井家」という看板もない。参列者の記帳テーブルもない。火葬炉の前に、突然の訃報を知らされた人たちが自然に集まっただけの、静かなお見送りだった。
それらしいことと言えば、最後に火葬場の外で、奥様が短くご挨拶されただけ。セレモニーのようなものは一切なし。
誤解されるかもしれないが、これほど見事な死に方はない。悲しみの中で、「ああ、俺も死ぬときはこうしてもらおう」と思ったものだ。
//
死に際の立派さにこだわる人も少なくないが、そんな必要はない。余計なことですらあると思っている。死、それ自体に価値の上下なんかない。そんなところに何かの価値を見出そうとするのは、人間の過信、傲慢さの表れなのではなかろうか。
//
死にまつわる属性に関してはいくつか思うことはある。積極的に死にたいと願っているわけでもない。ただ生理的に『人は誰でもいつかは死んでしまう』ことを素直に受け入れているのである。
悟っているわけでも、もちろんない。世俗欲は両手からこぼれ落ちるほどもっているし、日々煩悩に悩まされてもいる。だが、こと死に関しては、『しゃーないな』と思っているのである。
//
絶筆となった『適応上手』には、そう書かれている。
「死ぬのはしゃーない」
その言葉通り、見事なまでに自然体で人生を全うした永井さん。
たった5回しかお会いしていないけれど、僕の残りの人生の中で、永井明という作家は、これからもずっと生き方のひとつの指標になっていくに違いない。
(2004年9月14日掲載のAIC 「永井明さんのこと」)
穴吹史士さん
穴吹史士さんは朝日新聞社の社員で、週刊朝日の編集長時代の1993年10月20日には「野村秋介自決事件」に遭遇した。
右翼活動家(という肩書きが打倒なのかどうかは分からないが)・野村秋介が、当時、週刊朝日に連載されていたイラストレーター・山藤章二の「ブラック・アングル」で名誉を毀損されたとして朝日新聞本社に謝罪を求めて乗り込み、そこで拳銃自殺を遂げたという事件。
穴吹さんとは直接関係はないが、野村事件の3年後の週刊朝日に、私と「たぬ」のことを紹介する記事が載った。

この頃の僕は失意のどん底にあった。せっかく得たチャンスをしっかりものにできず、再び「売れない地獄」に墜ちていた。
そんな中で、井津先生との長い手紙のやりとりなども載せた『狸と五線譜』というエッセイ本を小さな出版社から出してもらった。
その本の紹介ということで、週刊朝日が1ページをさいてくれたのだ。
この頃、穴吹さんもまた失意の日々を送っていたようだ。
野村事件の後もいろいろと不運なことが続いていた。
1996年にはかつてのライバル(思想的には「宿敵」?)ともいえる元・週刊文春編集長の花田
紀凱氏(1994年に雑誌「マルコポーロ」編集長に異動になってからは、ホロコースト否認論を掲載してサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受け、同誌を廃刊させ、左遷された)を抜擢して朝日新聞社で女性誌「UNO」の編集長に迎え入れたが、同誌は部数を伸ばせず2年で廃刊。
その責任を追及され、穴吹さんは朝日新聞社内でどんどん干されていった。さらには癌も発症して、入院生活も経験した。
その癌治療から仕事に復帰した快気祝いの会(前述の大野雄二トリオがゲストのパーティ)に私は永井さんに誘われて出かけていき、永井さんから穴吹さんを紹介された。
当時の穴吹さんは険しい顔で、私の顔を睨みつけるように見たのを覚えている。
それでも私は懲りずに、その後も著作を穴吹さん宛に送り続けた。
その根気に負けたのか、穴吹さんはAICのご自身のコラムで私のことを書いた。そのことでお礼のメールを送ったところ、「会いましょう」となって、朝日新聞社まで出かけていった。
現れた穴吹さんは最初に会ったときとはうってかわってニコニコと穏やかな表情で、本当に同じ人だろうかと驚いた。
再会したその場ですぐ「AICに連載コラムを書きませんか」と誘われた。
永井さん、穴吹さんは、僕が人生のどん底にあったときになんとか「社会」から完全にドロップアウト(というか、フォールアウト?)しないようにつなぎとめてくださった命の恩人である。
AICでも書いていた永井さんを穴吹さんと一緒に見送り、穴吹さんをAICの執筆仲間である野々村邦夫さん(日本地図センター理事長=当時)、作家の本田成親さんと一緒に火葬場に赴き、見送った。
翌月、野々村さん、本田さんに誘われ、
穴吹家を弔問した。
夫人から、遺言で、葬儀などは一切行わなかったことを聞かされた。
遺影の前にはカメラが置かれていた。「位牌の代わりに愛用のカメラを置いてくれ。ペンタプリズムのところが△に尖っていて位牌みたいだろ」という遺言があったそうだ。
夫人のお話では「たくきさんには(死を覚悟した日に)お別れの電話をかけたようなんです」という。
電話は受けていないので、変だなあと思っていたら、原因が分かった。ケータイに残された履歴を見ると、080-で始まる私のケータイ番号を、間違えて090-でかけていた。
亡くなる20日前の2月17日、夜9時32分、通話時間18秒。090-以下が同じ番号の人が出て「番号違いですよ」と答えたのだろうか。そのやりとりが18秒……。
穴吹さんのケータイに残っていた、私に最後の電話をかけた痕跡。080とすべきところを090にしていたため、つながらなかった
悲しい。
2月17日の夜、僕は何をしていただろう。
日記を見ると、雪景色の写真が残されている。080と090。1つ違いで最後のメッセージを受け取れなかったことがものすごく悔やまれる。
同じ頃、やはり電話をもらっていたという本田さんの話では、淡々と最後のお別れを告げられ、何も言えなかったそうだ。葬儀はやらないことなども、そのときに本人の口から聞かされたとのこと。
年下の僕には、何かアドバイス的なことを伝えたかったかもしれない。悔しいけれど、穴吹さんが死の直前に僕に電話をかけてくださっていたということが分かったことはよかった。「つながらなかったんだよ。残念だったな」と伝えるために、今日、僕を呼んでくださったのかもしれない。
……なんとも言えない気持ち。言葉にならない。
(2010年4月4日の日記より)
……と、私にとって人生の恩人5人のことを改めて書いてみた。
気がつくと私は71歳で、この恩人たちよりずっと長く生きている。いつの間にそんなに時間が経ってしまったのだろうか。
ちなみに、私の実父は1994年6月に65歳で亡くなっている。
幼少期に別れてからは一度も会うことはなかった。
アルコール依存症から肝臓を患い、最後の数年は認知症も併発していた。
周囲の人たちは「70代なんてまだまだですよ」「たくきさんはしぶとく長生きしますよ」などと言う。
もちろん80を超えても元気で、頭もしっかりしている人はいる。しかし、自分の人生を振り返り、お世話になった先輩たちのことを思うと、70代まで生き延びるというのは、実際にはかなり大変なことなのだと実感している。
先輩がたから学んだことも、どんどん忘れてしまう。
だからこそ、こうしてときには確認してみることも必要なのかもね。
(ちなみにこれが今年130回目の日記になった)
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