2025/08/21


ポツダム宣言受諾前後

原爆2発投下された前後の出来事について
NHKで番組を作って放送していた。
昭和天皇 終戦への道〜外相手帳が語る国際情報戦〜
アメリカ国内での投下命令はポツダム宣言の前に行われていた。アメリカ国内でも、なんとかソフトランディングさせようという人たちはいたが、トルーマンは原爆実験成功を聞いて突如人が変わったようになったという。
日本国内では、天皇がソ連を介した講和交渉に期待をかけてしまい、ズルズルと時間が流れた。原爆2発落とされても、まだ本土決戦を主張する軍部。15日の後も、久米島などでは馬鹿将校が島民をスパイ容疑で次々に虐殺していたりして……なんかもう、知れば知るほど憂鬱になるばかり。
第4巻を発行した後、少し休憩して、ようやく『真・日本史(5)』を書き始めたところだが、作業はどんどん遅くなっている。学ぶことが多くなるのと同時に、知れば知るほど気が滅入り、疲れてしまうからだ。
冒頭ではこのように書いた。
(略)信じられないような愚行、無責任、残虐行為、醜悪さの連続。その犠牲となる人たちの無力さと理不尽さ。
そうした事柄をただ時系列で見ていくだけでは、気が滅入るだけでなく、何を学ぼうとしているのかが分からなくなりそうだから、話を進める前に、視点の整理というか、深掘りの仕方、指針を決めておこう。
まず、この戦争の始まり方と終わり方を重点的に見ていきたい。始まってしまった後は、ひどい内容がこれでもかと続くからね。なぜそんなことになったのか、そして、なぜ早く終わらせられなかったのかについて、重点的に考察したい。
次に、「○○の戦い」みたいな戦闘シーンを並べるのではなく、いくつかのテーマ別にまとめてみたい。例えば虐殺行為、馬鹿げた作戦や命令による理不尽な死(餓死や特攻、玉砕)、非戦や早期終結を図ろうとした人たちが馬鹿で狂信的な軍幹部たちによって抑え込まれてしまった過程。諸外国の思惑。
こうした視点を整理していくことで、あの戦争の全容や、最も恐ろしい点が見えてくると思うからだ。
前にも言ったけれど、何が起きたかだけでなく、誰が何をした結果、どういうことになったのかという史実を冷静に見ていかなければならない。たった一人の愚行で何万人もの人が理不尽な死を味あわされることになる、というのが戦争だからね。
さてさて、続けられるのだろうか……。書き始めてかなり経つが、まだ第1回目も書き終えていない。
山の上の……

さて、何の花でしょう。ヒントは↓
世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)

頑張れキュウリ

2025/08/22

この「全数字偶数」の可能性を持つ日は9月以降はない。今年はあと8/24、8/26、8/28の3日だけ。しかも、2時、4時、6時、8時台にしかないし、湿度が59%以下になると駄目。温度が29℃以上でも駄目。そう考えると、ものすごく難しいのよね。
久々に『狛犬ガイドブック(1)』のご注文があり、郵便局まで涼風号MarkIIで往復。こんな暑さの中でも人間は生きているんだな、と感心する。
今年の米

郵便局の帰り道。今のところこのへんの田んぼはすべて順調そう。新米の季節になれば一息つけるかな。それまでは買い置きの米がもちそう。


しかし、予報では9月になってもまだ30℃を下回らないらしい。死んじゃう人、いっぱいいるんじゃないか。

トイレの中も30℃。サウナいらず
ももねがんばる
2025/08/23

“忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~ より
ボルネオに取り残された従姉のこと
NHKの「戦跡」シリーズ “忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~ を見た。
フィリピンに移住した日本人と現地の人との間に生まれた子供たちが、戦時中に親が亡くなるなどして取り残された。外務省の調べでは、確認できただけでも3815人にのぼるという。
当時の日本とフィリピンは、どちらも「父系血統主義」の法律だったため、父親が日本人の彼らは無国籍のまま、隠れるように戦後を過ごした。
そんな「忘れられた日本人」たちのことを伝える番組だ。
場所も状況も違うが、私にもボルネオ島に取り残された従姉がいる。
母方の叔父が戦時中に「現地妻」に産ませた娘で、自分の名前の1字を取って「祐花(ゆはな)」という名前をつけたという。その叔父もだいぶ前に亡くなった。
この従姉がまだ生きていれば、今、82~83歳くらいだろうか。
叔父は日本に戻ってきてから日本人の妻と結婚し、娘を1人もうけた。その娘もまた私にとっては従妹だが、ボルネオに取り残された異母姉のことを知っているのかどうか、確かめたことはない。
私はボルネオの従姉のことはお袋から聞いた。叔父は7人きょうだい(男2・女5)の長男で、妹たち(お袋を含む)には、ボルネオに現地妻と子供を残してきたことを話していたが、時間が経つにつれ、それはタブーになっていったようだ。
そういう日本兵が「現地妻」に生ませた子供は、移民の子供に比べれば圧倒的に少ないながらも、アジアのあちこちにいるのだろう。
従姉がまだ生きているのかどうかはまったく知るよしもない。なにしろボルネオ島は日本の約1.9倍の広さがあり、現在はインドネシア、マレーシア、ブルネイの3か国の領土となっている。

現在のボルネオ島は3つの国に分割されている
Wikiによれば、「第二次世界大戦に突入後の1941年12月16日、英領ボルネオに日本の陸海軍部隊が初上陸。12月24日にはクチンを占領し、日本の軍政下においた。1945年の終戦時まで期間中、ボルネオにおける戦没者数は、陸軍1万1300人、海軍6700人。終戦後、本土に復員を果たした者は陸軍1万8600人、海軍1万900人」だという。
叔父はなんとかという町(何度も聞いていたのだが失念。もしかするとバンジェルマシン? そんな語感だったような……)の基地で通信業務を担当していたらしい。
奥地では「
有尾人」(尻尾のある人間)がいたとか、そんな話も聞いた。
そういう面白話?は伝えられるが、残してきた現地妻と娘に関しては、叔父の妹たち(次男は20代くらいで病死している)の間でも話題になることはなかった。
インドネシアでは日本の敗戦後も、日本兵が数千人規模でインドネシアの独立戦争に参加したという。叔父はそれには加わらず、捕虜となって長期拘留された後に日本に帰国したらしい。
私のように、あの戦争のことを体験者たちから直接聞かされた世代も、もうすぐみんな死んでしまう。日本では、その後の世代に、歴史をきちんと学ぶことをせず、「日本すごい」「皇国日本」などと能天気なことを叫ぶ連中が出てきて、国会議員にまでなっている。
悲しいかな、歴史は繰り返す……のか。
「ヒロッタ内閣」の貧乏くじ 「不作為は犯罪」か?
『真・日本史(5)』は全然進まない。ここ数日は、二・二六事件後の政局について調べていた。
広田弘毅という人の一生を調べていて、考え込まされたので、ここに抜き出しておきたい。
広田弘毅と「無作為の罪」
凡太: 広田内閣は1年ももたなかったんですね。
イシ: そうだね。二・二六事件の後の内閣だから、軍部に逆らったら殺されるという恐怖が政界を支配していた。そんな中で無理矢理首相にさせられたから、「火中の栗を拾った」ということで「ヒロッタ内閣」なんて呼ばれたりもした。実際、首相を務めた1年弱は常にストレスまみれだっただろうね。
広田弘毅(1878-1948)
福岡の石屋の息子として生まれる。東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、在清国公使館(北京)、英国大使館(ロンドン)、ワシントンD.Cなどの勤務を経て、第二次山本権兵衛内閣、加藤高明内閣で外務省欧米局長として幣原外交を支える。大正14(1925)年の日ソ基本条約締結にも尽力。その後、オランダ公使、駐ソビエト連邦特命全権大使。昭和8(1933)年、斎藤実内閣で外務大臣。続く岡田啓介内閣でも外相。二・二六事件で岡田内閣が倒れると、後継首相に指名され就任するが、議会での「腹切り問答」騒動で総辞職。次の次の第一次近衛文麿内閣で外相。盧溝橋事件勃発時は不拡大を目指し、その後、戦況拡大するとトラウトマン和平工作などで収拾を図ったが失敗し、外相辞任。太平洋戦争開戦直前の米内光政内閣では内閣参議として日独伊三国同盟には反対した。戦争末期にはソ連を介した講和締結の役割を期待されるが失敗。
敗戦後、A級戦犯に指定され、文官として唯一死刑判決を受け、昭和23(1948)年12月に絞首刑が執行された。没年満70歳。
広田弘毅という人は、石屋の息子から外務官僚になり、事実上日中戦争が始まった頃に首相にさせられ、その後、日中戦争が本格化した時期の第一次近衛内閣では外務大臣だった。前後の軍人が首相となった内閣に挟まれた形で、文官として軍部を相手にしなければならないという厳しい立場だったことは容易に理解できる。
結果的には軍部の圧力に正面から対抗することはできず、重要な局面では最終的に軍部の方針を認めるようなことが続いた。
注目すべきは、太平洋戦争敗戦後の東京裁判で、文官としてただ一人死刑判決を受けて絞首刑になった人だということだね。死刑になるほどの戦争犯罪者だったのかということで大きな議論を呼んだ。
凡太: 広田さんの経歴を見ると、戦前戦中を通して、戦争拡大には反対の立場で動いていたように見えます。なぜA級戦犯にされ、処刑されてしまったんでしょう。
イシ: そこなんだよねえ。普通に考えれば、死刑にされるのはおかしい。
死刑判決になってしまった要因はいくつかあるだろうけれど、強いていうなら、広田の優柔不断さが軍の暴走や南京虐殺事件を招いたという検察側の主張。広田自身が「私が高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負う」という態度を貫き、一切弁明をしなかったこと。広田の周辺に国粋主義者たちの人脈が常にあったことなどが重なってしまったからだろうね。
もちろん彼は死刑にされるような人ではなかったと思う。主席検事のジョセフ・キーナンも「広田の絞首刑は不当。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までだろう」と言っている。
広田は禁固刑や終身刑などで拘留が長引くことをいちばん怖れていたようだけれど、彼には長生きして、当時何があったか、どんな状況の中で、どう行動したのかという証言をたくさん残してほしかったね。
東京裁判は敵国が逆恨みでやったことで不当だという議論は盛んに行われるけれど、ここでは裁判の正当性についてよりも、検察が広田につきつけた罪状のことを考えてみたい。
検察の主張は、「広田は日中戦争における軍部の計画を熟知していながら、最終的には支持した。南京事件についても、阻止するための措置を何らとろうとせず、無視した。そうした『不作為』は犯罪的な過失といえる」というものだった。
この「不作為は犯罪である」という部分を、きみならどう思う?
凡太: 知っていながら何もしないのは犯罪だ、という論理ですよね。でも、広田さんが首相や外相を務めていた時期には、すでにそれまでの首相や閣僚が次々に殺されていて、軍部に反抗したら命が危ないという状況でしょう? そんな状況では、最後は黙ってしまう、黙認してしまうのは、責められないと思います。
イシ: そうだよね。それだけに、この「不作為も犯罪だ」という検察側の主張は厳しいし、重い。
自分が広田の立場だったらどこまで動けたか、ということを、我々は自分のこととして想像しなければならないと思うんだよ。戦争の責任は軍部や政治家たちだけにあるのか? 戦意高揚を煽ったメディアや、それにのせられた庶民にも責任はあるだろう。そういう空気の中で自分の生活や命を守るために沈黙してしまった人たちにさえ「不作為という罪」があるのか?
広田が何の言い訳もせずに処刑を受け入れた姿を、あの時代に生きていなかった我々も、しっかり心に刻み込むべきだろうね。