さて、いよいよ浅川町の髭題目塔再訪。
髭題目は俗称で、日蓮宗独特の書体(撥ねた部分をぐんと伸ばす髭文字)で書かれたお題目(南無妙法蓮華経)のことだ。
この髭文字のお題目を彫った石塔を、日蓮宗では「宝塔」と呼んでいる(一般の「宝塔」とは意味が違う)。
謎の高遠石工・小松利平の名前が記された数少ない(ほとんどこれだけ)石造物がこれなのだが、一体どういう経緯でここにこういうものが建てられ、利平はなぜこの塔にだけは自分の名前を刻んだのだろうか。
それを知るために、もう一度訪ねてみようと思ったのが今回の棚倉・浅川再調査のきっかけだった。
まずはこの場所が謎めいている。寺院の隣接墓地ではない。住宅地の中にポカンと空いている空き地のような場所だ。

こんな場所である。
墓地には間違いないのだが、個人の墓地ではなさそうだ。

土地を囲むように古い墓が建っている。

戒名が「童子」で、子どもの墓が目立つ。



年号は、享和3(1803)年、嘉永2(1849)年、万延元(1860)年……など、江戸時代末期のものが多い。
一説には、ここはかつて白山比咩神社の共同墓地だったという。神社の墓地に戒名を刻んだ墓があるのは不思議だが、神仏習合の江戸時代ならおかしくはないということだろう。子どもの墓が多いのも、本家の墓に入れなかったからなのだろうか?
真後ろに巨大な「浅川家隆墓」と彫られた墓石(?)があり、このせいで「浅川家の墓だ」という説明も以前にされていたのだが、この墓石だけが明治35年のもので新しく、「浅川家」の血統をめぐる複雑な問題なども隠されていそうなので、直接この墓地全体が「浅川家」と関係があるかどうかは微妙というか、ちょっと違うのではないかという気がした。
で、改めて問題の題目塔に刻まれた文字を確認すると、
正面:南無妙法蓮華経(髭題目)
正面台座:開眼主 日侃(花押付)
右側面:一切業障海 皆從妄想生 若欲懺悔者 端坐思實相 衆罪如霜露 慧日能消除 (『観普賢菩薩行法経』の一節)
左側面:維持 安政五 午戌年五月吉辰
台座上段右:村役人 庄屋 矢吹茂次右衛門、組頭 上野庄三郎、長百姓 岡部忠吉
台座上段左:本願主 浅川村住 田子熊蔵、福貴作 石工 小松利兵ヱ 下野出島 門人 鈴木靏吉
台座下段右:寄進干?傳連名? 浅川 中川治○、中川重平○、田子久次郎?、同 熊吉、同 平、浅川平?盛、○○村 ○○河?真?、○田村 鈴木亀吉、吉田治兵ヱ、須藤代?吉、○野要蔵、○○寅之助、○○○次郎、○白石村 ○○善兵ヱ
台座下段左:石川 橋本儀右エ門、西巻金兵ヱ、荒川茂平、矢吹栄助、鈴木要助、尾花半蔵、川村吉蔵、緑川荘助、田中佐五右エ門、溝井半兵ヱ
……となっている。

この「開眼主」日侃は、棚倉の長久寺第二十代「珠妙院日侃上人」であることが分かった。現住職が第26代なので、時代的にも合っている。
ここに刻まれている内容から、この題目塔建立の経緯をいろいろ想像してみたが、こういうことではないだろうか……。
- 江戸時代末期、この地でも日蓮が説いた法華経信仰を熱心に学ぶ人たちがいた。しかし、当時は法華経信仰の寺は棚倉の長久寺しかなく、浅川、石川には法華経の道場もなかった。
- ⇒日蓮の教えは比較的新しいものであったため、当時の法華経信仰者の多くは、もともと先祖からの宗派(浄土宗、曹洞宗、天台宗……など)の檀家でもあり、宗門帳の縛りもあったので、自由に宗派替えをすることもできなかった。
- ⇒そこで、信仰者たちは独自に講を作って勉強会のようなものを開き、親交を深めていたが、自分たちの信仰の証として、また、先人たちの供養と地域の平安、発展を願って「宝塔」を建立しようとした。
- ⇒日蓮の教えは反体制的と見られていた向きもあり、また、自分たち本来の檀那寺との関係もあるため、塔の建立に際しては、庄屋、組頭、長百姓ら、村の三役の許可をしっかり得た上で進めた。(村役人三役の名前が刻まれている理由)
- ⇒塔に魂を込める開眼の儀式は、棚倉・長久寺の住職に依頼した。
- ⇒自分たちの信仰心を端的に表明するものとして、『観普賢菩薩行法経』の一節を彫った。
- ⇒宝塔製作に際して、福貴作の石福貴には格別の世話になったので、固辞する利平を説得して石工名を彫ってもらった。
……おそらく石福貴との関係においては、利平の弟子を自認している(「門人」と刻んでいる)鈴木鶴吉がキーパーソンになっていたのではないだろうか。
鶴吉はもともと東野出島村の石屋の倅で、石屋を継いでいるのだが、東形見久保の角折神社には「福貴作村石工利兵衛 門人 下野出島村 石工棟梁 鶴吉 尾張国 石工栄吉 安積郡八丁目村 石工米吉」と刻まれた文久元(1861)年建立の燈籠がある。
この髭題目塔が建てられた安政5(1858)年の3年後だが、そのときにはすでに利平のもとから独立し、実家の石屋棟梁を継いでいたのだろう。実家の石屋棟梁となった後も、利平の「門人」であることを刻んでいるのだから、利平のことを心から崇敬していたことが分かる。
この浅川の髭題目塔も、鶴吉が利平を強く説得して名前を刻ませたのではなかろうか。
……そんな図式が、今回の「再確認ツアー」で浮かび上がってきたことが大収穫だった。
利平の人生はしかし、この頃がいちばん平穏で、この後は戊辰戦争、世直し一揆、廃仏毀釈……と、とんでもない災厄が襲ってくる。
愛弟子・寅吉が脂の乗る時代に、ほとんど石細工の仕事が入らなくなるという悲劇。
それを思うと、この題目塔に刻まれた「一切業障海 皆從妄想生……」の文字が、さらに胸に迫ってくる。
「海のように広がる人間の業、悩み、苦しみのすべては、(自己中心の)妄想から生じている。それを懺悔したいなら、居住まいを正し、心の目で、真の世界を見よ。そうすれば、罪は朝露のごとく消えるであろう」……というようなことだろう。
安政5(1858)年、利平は54歳。寅吉は14歳。
鶴吉は没年明治7(1874)年ということは菩提寺(神宮寺)の過去帳によって分かっているが、享年何歳だったかが記されていない。60歳くらいで亡くなったとすれば、利平より10歳年下くらいで、この頃は40代だろうか。石福貴で寅吉の指導も行っていたはずだ。