復活した沢がまた涸れていた。
流入口を元通りにされてしまい、水が入らなくなってしまったからだ。
この事態は予測していたから、ああ、やっぱり……というところ。
もともとの沢筋が壊され、途中で田んぼの用水路と一緒にされてしまっているところに根本的な無理がある。
沢筋の水路は従来のように独立して引き直さないと、沢の管理はできない。
なぜこんなバカげた工事をしたのだろうか。
実施した責任者は誰(どこ)で、以前はどうなっていたのか。
住民たちはやはりまとまらず、「触れたくない問題をほじくりかえしてくれた」という対応をする人もいる。
これも想定内。
たまたま、フェイスブックで、水俣市在住で「地元学ネットワーク」というのを主宰している吉本哲郎氏が福島市で講演をしたという記事を見つけた。
吉本氏のことはまったく知らなかったが、プロフィールを拝見すると、
1948年水俣市生まれ。1971年、宮崎大学農学部卒業後、水俣市役所に入る。
都市計画課、企画課、環境対策課課長、水俣病資料館館長をへて、2008年退職。
1997~1999年 熊本大学非常勤講師を務める。
国内外で、地元に学んで人・自然・経済が元気な町や村をつくる地元学の実践にあたっている。水俣市在住。
……とある。
講演の内容をまとめているブログを読むと、実に示唆に富んでいて、すっかり感心してしまった。
少し抜き書きさせてもらうと、
水俣病を経験した水俣市と同じ道を福島は歩むだろう。
水俣市は水俣病のダメージから抜け出すのに
40年以上の歳月を要した。
風評被害、偏見、イジメ、「水俣」の名前では売れない農産物、子供たちの結婚や就職にも悪影響……これらは福島のこれからにも予想される。
福島原発事故と水俣病は多くの共通項を持っている。
●国策 ●科学万能 ●経済優先 ●人命軽視
●事故の完全な後始末は不可能 ●問題解決に長期間かかる
●地域社会の対立(事後の行政などの方針によって出現・拡大)
しかし、多くの苦難を経ても、水俣は「環境都市みなまた」として、ISO14001を先んじて取得するなど、環境先進地として甦った。
吉本氏は自らの経験をもとに、福島に対して、
- あきらめろ!、覚悟しろ!、本物をつくれ!(人様は変えられない。自分が変われ)
- 世界性を帯びた解決策を!(フクシマスタンダードを創れ)
……と提言する。
そのためのキーワードとして、
- 人は感動で動く、感動する生存風景を創りたい。
- 感動するものには、物語がある。
- 当たり前の田舎を作りたい。来た人がホッとする風景でありたい。
- 問題解決の方法に悩むよりも、新しい価値をつくる。問題をどう「作り直すか」
- 『人様は変えられないから、自分が変わる』(祈る、ゆるす)
- 命の源である水、食べ物がいかに大切か。(薬草から薬食へ。食べ物は命の薬である)
- 出される『ごみ』が、決して自然を損なうものであってはならない。
……といったことをあげ、この哲学から生まれた、自身が提唱する「地元学」についても言及した。
- 地元学とは『地元の人が、自分で解決する力をつける』ツールである。
- あるもの探し(愚痴から自治へ)
- 新しいものをつくっていないところは衰退する。(あるものを組み合わせて新しいものを創る)
- 地区環境協定(カンバンを作って守る)
- ライフサイクルアセスメントの導入(目的、方法、組織を明確に)
- 「もやい」直し(内面社会の再構築)
- 『住んでみたい、また行きたい、買いたい』と思わせるものを。(地域ブランド)
- 『ここに生きる、ここで生きていく勇気と希望をつくる』(未来の共有という意識)
- 人は「水と緑と火に集まる」(他の火に当たることを他火(旅)という)
- 解決策は足元を調べなおすことから。
- 交流は、己と地域を知ることから。
この「地元学」については
⇒ここにまとめたものがある。
読んでみて、すっと納得できた。おためごかしの「地域興し」論ではなく、ちゃんと気持ちが入っているし、実践的な内容になっているのに感心させられた。
地域の人を「土の人」、外から訊ねてくる人を「風の人」と表現するなど、なかなかの詩人でもあるようだ。
他にも、日めくりカレンダーの名言集みたいなものとしては、
- 逆境と笑いが人を成長させる。
- 男が支えて、女性を走らす。
- 「上にえらくならない、横にえらくなる」
- 一点突破でこじ開ける。
- 40点主義でいい(理論より行動。言わなければダメ)
- 相談を真剣に聞きすぎてはダメ(時間がお医者さん。解決策はその人の中にある)
- 管理とマニュアルでは人は育たない。
- 行政の中にリーダーを育てよう。(町の人が育てる。見守り、片目をつぶる。決められていることを変える人を応援する)
……などなど。実に頭のいい、やり手の人なのだと想像する。
今までなら、「ふうん。そういうものかもね」くらいの感想だったかもしれないが、去年からの様々な経験の後だから、こうした言葉の数々がひとつひとつ心に食い込んでくる。
僕は元々、地元意識とか、人との深いつながり、関係というのは苦手で、できることなら距離を置いて生きていきたいと思ってきたが、それではすまされないということを、去年からの経験で嫌というほど学んだ。
同時に、深入りしすぎて自滅してしまうことも恐れている。
「失われた沢」問題は、ここ、日光に来てから最初の試金石かもしれない。
「触れたくない問題」「あまり考えたくない」「放っておいて済む間はとことん見ないことにしておく」という態度をとれば、まあ、日々の生活の範囲では楽だろう。
そう言ってのける住民の気持ちはとてもよく分かる。
でも、そうした無関心、無責任の蓄積が、放射能だらけの日本、自然を壊し尽くした日本につながっているのだから、やはり、できるところから、つぶれない程度には努力していかなければならないと思う。
僕にとっては、東京まで行ってデモに加わるより、流れ着いたこの土地で、逃げずに問題に向かうことが、意味のある「実践」なのだと思う。
※写真が1枚もない「阿武隈日記」は1年に1ページあるかないか。こんなページでも、最後まで読んでくださってありがとうございました。