田んぼに水が入ればカエルが現れるはずなので待っているのだが、水路の準備によってカエルが卵を産むのにちょうどいいと思っていた水たまりというか湿地が消えてしまっていた。
がっかり。
この前の日記で書いた長野県の入試問題騒動もそうなのだが、どうも教育とは何かということを、お役人だけでなく、現場の教師たちのなかにも勘違いしている人が少なくない気がする。
さらには、向かうべき相手を間違えて、ただただ外から評論家になりきって声を上げている人も多い。
現実は、例えば
⇒こうなのだ。
直接読んでみてほしいが、概略を書けばこうなる。
郡山に住んでいた一家の話。父親は30代。夫婦と二人の子供の4人家族。郡山市内に家を建てて間もない。
原発事故後、妻と子供たちは新潟市内に「自主避難」中。父親は毎週妻と子供たちに会うために新潟まで通ったが、会社に願い出て横浜転勤を認められた。
線量計を持って横浜の家を見に来た妻は、新潟市内より少しだけ線量が高いことを理由に横浜で一家揃って暮らすことを拒否したという。
夫は「ママ友の存在が大きい」と漏らす。
夫は願い出た横浜の赴任地で、今も一人で暮らし、新潟市に家族に会いに行く。
……なんだそれ?
読んで目眩がした。
横浜市内の空間線量は、まあ0.1μSv/h前後だろう。今となっては首都圏としては平均的なレベル。新潟市内がそれよりほんのちょっと低い……例えば0.08とか0.06とか……としても、そんなものは差とは言えない。
そもそも、そのレベルになると、市販の線量計では正確には測れないし、測れたとしても、だからどうした、という話。
もちろん、1μSv/hと0.1μSv/hは全然違うだろう。
1μSv/hの環境には暮らしたくないし、1μSv/hの場所で暮らしている人は、0.1μSv/hの環境で暮らしている人より放射性物質を身体に取り入れてしまう確率は高いということは言える。
そして、残念ながら、そういうレベルで汚染された場所が福島だけでなく、あちこちにある。
しかし、新潟と横浜を比較して横浜を拒否するというような話になってくると、これはもう放射能パラノイアとしか言いようがない。
0.1μSv/hと0.08μSv/hの差は、市販の線量計では測れない。その程度の差は同じ場所でも絶えず変化している数値の範囲内のことだ。そんな空間線量の差で生活のリスクに差が出るわけがない。
新潟には柏崎刈羽原発があるし、日本海を挟んで朝鮮半島や中国にもある。中国大陸からは風に乗っていろいろな有害物質も飛んでくる。
福島第一で今後何か大きな異変が起きて、放射性物質の大規模再拡散が起きれば、新潟だろうが横浜だろうが関係なく一気に汚染される可能性はある。
放射能汚染などより、次に来る地震などの天災で命を落としたり縮めたりする可能性や、交通事故、伝染病などのリスクのほうが高そうだ。
実際、自主避難している家族に会うために高速道路を走っていた父親が交通事故で死ぬといういたたまれないケースが出ている。
もちろん、新潟市と横浜市でどちらが安全かなんて、誰にも分からない。
しかし、この家族は今、確実に「家族がバラバラになる」という深刻なリスクを抱えている。
夫婦の愛情、信頼が壊れていくリスク。子供が父親と離れて暮らすことで抱え込んでいくストレス。夫婦、親子の間に入る亀裂がどんどん広がっていく……そのリスクのほうがどれだけ切迫した問題であり、恐ろしいことか、悲劇的なことか。誰が考えたって明々白々ではないか。
こんな簡単なことを分からなくさせている原因はなんなのか?
実は、個々の事情を想像することができない人たちが、熱心な「にわか評論家」になっていることが大きい。
冷静な判断力を失わせてしまうまでに「ママ友」たちを扇動する者がたくさんいる。それが連鎖反応的に広がっていく。みんな、正義感や使命感に燃えて「熱心に」やっているのだから困ってしまう。
向き合う相手を完全に間違えているのだ。
こういう事態を引き起こした犯人たちは、今なお訴追もされず、今まで通りの権力と地位を手にして、今まで通りの手法で、税金泥棒や詐欺行為、背任行為を続けている。それを止めることもできずに、被曝が恐ろしいと叫んだところで何がどう解決するのか?
原発をなくそうと動いている人たちがバラバラに分断され、互いを責めるようなことにエネルギーを費やしている間に、放射性物質をばらまいた犯人たちはますます結束を強め、新たな税金泥棒犯罪を進めている。
放射能パラノイア的な発言や運動が出てくればくるほど、犯人たちはにんまりしている。それはそうだろう。「そんなことはありませんよ」「それは誤解ですよ」とクールに応じていればいいのだから。
日本を壊した犯人たちの責任を追及することが先だ。
こうしている間にも、六ヶ所村では日本原燃がMOX燃料工場の建設工事を再開すると発表するし、停止中の泊原発2号機、3号機には新たな燃料集合体を搬入するとしている。そうした動きを止めることにエネルギーを注ぎ込むほうがはるかに大切なことだろうに。
大元の原因を作った責任を追及されることもなく、言い訳を重ねている犯人たちに時間の猶予を与えるようなことをしていても、連中を喜ばせるだけだ。しかも、実際に被害を受けた人たちは、パラノイアムーブメントに巻き込まれて不幸の度合を深めていく。ほんとうにやりきれない。
そのことを、実は3月31日のイベントでも思い知った。
はっきり言おう。
これは人間の尊厳の問題だ。
他人の心を尊重できない人に、他人を救うことはできない。
山木屋太鼓のメンバーの一人は、今も避難先である福島市から毎日飯舘村に残って操業を続けている菊池製作所に通っていると言う。
「そりゃちょっとやだね。怖いね」
「やっぱ怖いっすよ。嫌ですよ」
短くそんな会話を交わした。
そこからスタートする会話にこそ、何かが生まれてくる可能性があると思う。
この人とはまともに話せそうだなと、直感で分かり合うことができないと、よそ行きの会話しかできない。
が、時間がなかった。
彼もまた、他のメンバーと一緒にバスに乗り込み、会場を去っていった。
山木屋太鼓だけでよかった、と、思った。
自分の無力さ、小ささを感じた。
僕も観客の一人として、あるいは「演者」側の一人として参加し、一緒に打ち上げをやりたかった。
……次の機会はあるのだろうか。
そんな思いを胸に、バスが街の中に消えていくまで見送っていた。

太鼓を積んだトラックの横っ腹には
「美しい自然 そしてここが故郷 山木屋太鼓」の文字