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のぼみ~日記 2022

2022/04/07

変な夢の話

夢を全然見ないという人がたまにいて、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったりする。
多分、見ているけれど、起きたときには忘れているだけなのではないだろうか。でもまあ、それは見ていないのと同じか。
そういう人はしっかり眠れているということだろうから、ある意味羨ましい。

歳のせいか、眠りがどんどん浅くなり、見る夢がおかしなものばかりになっている。
今朝見ていた夢は超弩級にヘンテコだった。


夢の中の私は、武蔵小杉駅からバスに乗って家に帰ろうとしている(らしい)。
※註というか解説(以下同) 私は小学校から25歳で結婚して実家を出るまでずっと、川崎市に住んでいて、最寄り駅は東横線の武蔵小杉だった。当時の武蔵小杉は今のような開けた場所ではなく、そこに出るまでには常に渋滞する南武線の踏みきりを渡って行くバスで30分くらいかかった。

バスは混み合っているというほどでもないのだけれど、なんか私は感染を意識して隣とは隙間を開けて座っているように思える。ちょうど座っているところが非常口ドアの前の区切られた座席みたいな感じだった。
同じバスに、小学校の同級生だった石川くんが乗っていて、こっちをチラチラ見ていた。
※: 夢の中に出てきたのは石川くんではなかったかもしれない。そもそも小学校の同級生に「石川」という名前の子がいたかどうかもあやふやだ。ちょっと小柄でおとなしい感じのやつだが、今思うと、この夢の中に出てきた人物は、中高時代の学友の誰かと小学校時代の誰かが合体したような架空の人物だったのかもしれない。でも、夢の中ではとにかく「小学校の同級生だったやつ」という設定なのだった。

で、そのバスは私の家(実家)がある「山崎」のバス停を通って行く「道中坂下」行きではなく、山崎の1つ手前の野川の交差点を直進して、「野川団地」のほうに行くバスだったらしい。
道中坂下行きのバスがなかなか来なかったり、混んでいて乗り切れなかったりしそうなとき、野川団地行きや野川回り鷺沼駅行きのバスに乗って、野川で降りて1バス停分歩く、ということがたまにあったから、そういうつもりで乗ったのだろう。
※: 家から最寄りの「山崎」のバス停までは徒歩5分くらい。そこを通るバスは「道中坂下」行き。親戚に道順を教えるとき、バスの行き先と降りる停留所名を告げると、「どれだけ田舎なんだ」と笑われたものだ。
そのうちに「有馬経由鷺沼駅」行きのバスも通るようになったが、これは当初、1日数本しかなかった。武蔵小杉駅前のバスロータリーでは道中坂下行きと有馬経由鷺沼行きのバスは乗り場が離れていたので、待機位置にこの2台が並んでいたときはどちらに乗れば早く帰れるか悩んだものだった。
鷺沼駅行きのバスは野川回りのコースもあって、当初はそっちのほうが便数は多かった。

ところが何か考え事をしている間に野川のバス停を通り過ぎてしまったらしい。たまたま野川のバス停で降りる乗客がひとりもいなくて、停まらなかったようだ。
そのとき、石川くんが目の前に来て「過ぎちゃったよ。降りなくてよかったの?」と言ってきた。
隣にはやはり同級生の井梅くんもいる。井梅くんはちょっと背が高くて世話焼き。一度だけあった小学校の同窓会の幹事もやったやつ。
で、私は「いけね。次で降りるわ」というと、ふたりは「最近、運行方法の変更があって、野川を過ぎるとずっと先まで停まらないんだよ」という。
で、ふたりがわざわざ運転手さんの所まで行って、降り損なった人がいるので途中で停まれませんか、と掛け合ってくれた。
運転手さんは面倒くさそうにしながらも、どこかの大きな家の庭先にバスの鼻面をツッコんで停まってくれた。
そこで3人とも降りたのだが、相当行きすぎたらしくて、全然知らない場所だった。
仕方なくバス通りを歩いて戻って行くのだけれど、全然野川に戻れる感じがしない。
※: 知っている「ある場所」に行こうとするのだが、その途中がまったく知らない場所で、たどり着けないという夢はよく見る。電車の経路が分からなくて、どんどん遠ざかるという夢も多い。しかも、その場合、とりあえず行こうとしている場所は最終目的地ではなく、途中の「知っている場所」で、あそこまでたどり着ければあとはなんとかなる、と感じている場所。

私は、自分につき合って乗り過ごしてくれた2人に申し訳なくて、タクシーが通りかかったら拾おうとするのだが、たまに通るタクシーは全部客を乗せていたり回送だったりして捕まらない。
そのとき、1台のタクシーが少し通り過ぎたところで停まって、客が降りたので、そのタクシーに「ここから野川まで乗りたい」というと、運転手(カマキリ顔のおばちゃん)は不機嫌そうに、「そんなの無理」と断って走り去ってしまう。
※: タクシーが拾えないという夢もよく見る。
仕方なくそのまま3人で歩き続けていると、前方に突然繁華街のような場所が現れる。
道の両側にはできたばかりらしい建物が並び、派手な演出の商店街とか、レストランとかが続いている。その店の中を通りながら進むみたいなことになる。
井梅くんが「そういえば、このへんはスタバになって、大規模再開発されたんだよね」と言う。
「スタバ」というのは店の名前ではなく、再開発全体のこと、あるいはこうした複合商業施設化のことをいう言葉らしい。
石川くんと「渋谷もスタバになってから変わったもんね。スタバすごいね」みたいな会話をしている。
舗道を行くと、目の前には商店街入口みたいなトンネルになっていて、そこから先は道ではなく、店そのものだった。
最初のレストランみたいな店に入ると、照明が凝っていて、パッと暗くなるとLEDイルミネーションみたいなものが床の上に現れて図形を作った。
また照明がつくと、今のラインとは関係のない場所にあるテーブルに客がチラホラいて、そのテーブルを避けて店を通り抜けようとするのだが、照明が消えるとラインが変なところに誘導するように現れるので混乱させられる。
そのレストランみたいな店を通り抜けると、今度は左側に別のレストランがあって、従業員の女性がフラメンコのような踊りを踊っている。日本人なのだろうが、顔が妙に「濃い」。
そこは店の中ではなく、前の細い道を通っていけた。
さらに進むと大きな交差点に出た。
斜めに突っ切って広い道の反対側の舗道に出ると、舗道脇で若者が古物やら自作のアート作品やらを露天で売っている。そういうフリーマーケットみたいな道がずっと続いている。
その中で、ガラクタに混じってボロいギターケースが2つ出ているのを見つけた私は、売っているお兄ちゃんに「これ、どういう感じのギター? 見てもいい?」と訊いて、ケースを開けさせてもらうと、1台目からは一風変わったデコレーションを施したバイオリン型の薄いセミアコエレキギターみたいなのが出てきた。弾いてみると、弦が細くて指先に絡みつき、フレットのところはバリみたいなのがあたって弾けたもんじゃない。
※: ギターを売っている店を探すという夢をよく見る。いいものが見つかることは絶対にない。
テニスのラケットを捜す夢というのもよく見る。道具へのこだわりが脳内にこびりついているのだろうか。なんだか嫌だね。

もう1台からは、ギターの形に切っただけのただのまな板みたいな平らな板が出てきた。弦もない。
一緒にいた石川くんが「これ、有名な○○ですよ。すごい!」とかなんとかいう。
何が? ギターでもなんでもないじゃん、と思いながら元に戻して立ち去ろうとすると、売っていた兄ちゃんが「まあ、子どもには無理でしょうね」とかいうから、私も「そうだね。もうすぐ80の子どもには無理だわ」みたいに返す。
※:  つまり、このときの私は今の私の年齢なんだね。少し逆鯖(?)を読んで80近いとか言っているけれど、夢の中でも自分は老人である、という自覚がある。若者の価値観とのズレみたいなものも感じているんだろう。


……そのへんで一度目が醒めた。
眠りが浅くなって、蒲団の中でモヤモヤしていた。

これが「前編」。


トイレに行って戻って、次に見た「後編」がまたとてつもなくヘンテコだった。

場面はまったく変わって、どこかの長屋アパートみたいな一室。
私は小学校の同窓生だったC子ちゃん(同級ではなかった)と一緒に部屋の中にいる。
C子ちゃんとは恋人同士でもうすぐ結婚するみたいな、そんなシチュエーション。
ということはそのアパートの部屋は結婚後の新居としてすでに契約してあるということか。
その部屋から出て、C子ちゃんはこれから家(実家)に帰るところ。もう夜中の12時を過ぎていたので、私は「こんなに遅くなって、家の人に嫌みいわれるんじゃない?」とか言っている。言いながら、こういうところが俺の性格が曲がっているところだな、なんて思う。
で、玄関の上がり口のところに、2人が脱いだコートが床の上にポンと置かれていて、それを拾い上げて2人ともコートを着る。
ということは、季節は冬なのだな。そして、私も一緒にここを出て家(実家)に帰ろうとしているらしい。
※: たぶんこれは、若い頃、自分が自立していない大人だったという残念な気持ちがあるからだろう。

で、別れる前に抱擁……と、C子ちゃんを抱きしめようとしたとき、部屋の奥から、小柄なばあさんがヒョイッと姿を現して、こっちを見た。
ばあさんは膝を折った正座の格好のまま、両手を前に出していざるようにして前進する。
目がまん丸で、移動しながらもこっちをまっすぐに見つめている。
げっ!!
ミニばあさんは廊下を横切ったところで止まり、じっと俺の目を見ている。
きもちわり~よ! 怖いよ! なんだこれ?!!
C子ちゃんは背中を向けているので気づいていない。
私はたまらず、
「だ、誰だ!」
と叫ぶが、声がうまく出ない。

でも、そこでモゴモゴした声ながらも大きな声を実際に出したみたいで、目が醒めた。

最後のミニ婆さんの異様さが強烈で、目が醒めてからもしばらくドキドキしていた。


夢の中に出てくる人物がみんな50年以上前の人たちや死んでしまった人たちだったりする。しかも、親以外は、特に親しかったとか一緒にいた時間が長いという人物ではなく、ほとんど交流がなかったような人ばかり。
小学校の同級生にしても、毎日一緒に登下校していた親友の森くんとかはまったく登場しない。それが不思議。
大昔の記憶が夢に出るのは人生の終わりにきた証拠かな。認知症になった親たちも、最後の頃はそんな感じだった。「家に帰る」と言うその「家」が、よく聞くと自分が建てて長年住んでいた家ではなく、子供のときに過ごした親戚の家とか借家のことだったりする。そんなものはとっくの昔になくなっているのに……。

2022/04/08

今朝も夢を見ていたのだが、もはや眠りが浅くて、夢というよりは「思索」に近いような内容だった。

LGBTとかなんとかがいろいろいわれるようになったからか、ある企業で引きこもりのオタク青年を雇うことになった。
その青年は人付き合いが下手で、初対面の人とはほとんど会話ができない。
しかし、ちょうどコロナ禍とも重なり、リモート勤務が増えたことが幸いして、コンピュータの扱いが上手いということで、デジタル処理の事務系の仕事とかを割り振られて、それなりにこなしていた。
ところが、それが面白くない社員がいて、会議で「彼にそんな仕事ばかりさせていてはよくない。もっと人と接する仕事をさせるべきだ。そのほうが彼のためになる」とか言いだして、引きこもりオタク青年は地方のスーパーでプリンの対人販売をさせられることになった。
生乳が売れずに余ってしまい、捨てなくてはいけなくなったので、いつもよりも乳加工製品の生産を増やしたためだとか。
会話ができない青年に対して、これはほとんどイジメに近いことだが、青年は言葉を発しないままプリンを売ることに成功した。
テーブルの上に並べたプリンを囲むように、自分の部屋にあった小さなぬいぐるみを並べて、そこに「このお兄さんはうまく言葉が話せない可哀想なやつです。黙っていても許してやってくださいね。それはそうとプリン、美味しいですよ」と書いたカードを置いた。
興味を持った客が、黙ってプリンを買い物カゴに入れると、青年は黙ってちょっとだけぺこりと頭を下げる。
前に並んだぬいぐるみも一緒にぺこりとおじぎをしているようになんとなく見える。
そんな形で、そこそこプリンも売れてしまった……。

これは実は、青年が一人で考えたのではなく、企業の経営者が、友人を影のアドバイザリースタッフとして雇っていて、その誰かのアイデアだったらしい……。

……と、こんな内容なのだが、これはもう夢というよりは、半覚醒状態の脳が作っている「お話」みたいなものだろう。
変な夢を見ているよりもさらに眠りが浅いわけで、身体に悪そうだ。

でもまあ、起きてすぐ、こんなことを長々と日記に書いている私は、今日もなんとか生きている。
身体はあちこちボロボロできついけどね。

さ、今日は朝ドラ『カムカム~』の最終回だ。見る前からテンション上がるなあ。
昨日は録画を5、6回繰り返し見て、鼻水ズルズルだったからなあ。
今日はどうなることか。

最終回の放送前に大地震とか起きなくてよかったわ。
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