2022/03/17
地震

↑地震で散乱した仕事部屋(もともと汚い?)
昨夜、大きな地震があった。
宮城や福島で最大震度6強だとか。マグニチュード7.4、震源は地下57kmだそうで、2021年2月13日の福島県沖の地震(M7.3)の余震の1つと考えられるそうだ。

↑画像はNHKより
なんだかもう、日本列島は完全に大災害時代に突入している感じだ。
これにエネルギー資源、食料輸入が厳しくなって、極度のスタグフレーションと飢餓が追い打ちをかけるみたいなことになると、ほんとにどうなってしまうのか。
我が家の被害はほとんどなかった。
去年のほうがひどかったかな。
去年
崩壊した本棚を最低限度補強しておいたのでよかった。

夜遅かったので、机周りが↑こうなっているのは翌日に気がついた
今回は首都圏で停電や建造物倒壊などの被害も出たらしい。
うちでは瞬間停電さえなかったので、どうも震源からの距離ではないのだな。

↑停電の報告があったポイントだそう。緑はOK、赤は停電の地区

↑人口が多い地域は、変電所施設などの保護のために、強制的に送電を遮断するのだそうだ
お袋の誕生日
地震報道などを見てなんとなく1日が終わろうとした頃、ふと、今日はお袋の誕生日だったことに気づいた。
昭和3(1928)年3月17日、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)に生まれた。
父親(細野智之助)は伊勢崎で2番目の富豪と言われた蝋燭問屋の主人で、大きな屋敷と広い敷地には使用人の家が何軒かあったとか。
母親(香)は「白河城最後のお姫様の娘」だったそうで、徳川政権末期に老中を務めた
阿部正外の子孫だったらしい。
そういう家柄なのだが、父親が死んだ後は没落の一途で、武家のお嬢様の血筋だった母親は簡単に瞞され、財産をすべて失い、7人の子ども(息子2人、娘5人。お袋は四女)を抱えて白河市の外れに開拓農民として入植。
父親代わりとして妹・弟を育てた長男は出征し、ボルネオ島で終戦を迎え捕虜になる。
お袋は戦争中は東京の聖路加病院付属の看護学校にいて、東京大空襲で聖路加病院に担ぎ込まれる人たちの手当てにあたったりしていた。
そのときの恩師が、有名な日野原重明氏だそうで、卒業後も交流があったらしい。その縁で、お袋が作った「希望」と題した人形が聖路加国際大学玄関のマントルピース上に飾られている。
お袋はとにかく強い人で、周囲の人を精神的に支配するカリスマ性があった。それが子どもにとってはマイナスに働いたことのほうが多くて、私は親離れするのが遅れたために、人生において取り返しのつかない失敗もした。
最近、夢の中にお袋が登場することが多くなった。それも、常に妙な場面にいる。
夢の中でもお袋は一種支配的な雰囲気を持っていて、夢の中の私はお袋の存在を意識している感じ。それくらい支配力の強い人だった、ということか。
お袋は晩年、88歳の米寿に「米寿記念人形展」をやると言っていたが、80歳で亡くなった。
生きていれば今日で94歳。今の時代なら、そんなに不思議ではない年齢かもしれないが、戦争を生き延び、80年生きたのだから、欲張ってはいけないだろう。
最後は脳梗塞で倒れて、植物状態のような数か月を過ごしたのが悲惨だったが、そうなる数か月前、電話で「人間、死ぬ前ってこういう感じなのねえ。でも私は十分に幸せな人生だったわ。よしみつもそう思うでしょ?」と言われたのを覚えている。
米寿記念人形展を開くという強気の一方で、自分の死を予感していたのだろうか。
……そんなことを思い出しながら……今日は変な日記だな。

久々に雨が降って、窓の外、落ち葉に埋もれた地面が赤く染まった