助手さんがしきりに「気持ちが悪いから見て」というので、何事かと思ったら、家の前のしだれ桜が、遠くから見ると大きく見えて、近づくと小さくなるという。
は?

↑台所のシンク前から見た桜

↑窓に近づいて見た桜
「ほらね! ほらね! 変でしょ。気持ち悪いでしょ」
と、勝ち誇ったように言う。
……いやいや~……それはあたりまえなのでは?
↑こういうことでしょ。
実際には遠くから(シンクの前から)見ている桜のほうが全体の視野に占める割合は小さいのだが、窓枠が一つのスクリーンのような働きをして、脳は「窓の中に見えている桜」だけを画像として見ている。だから、シンクの前から見たときは窓の周辺(部屋の中の壁とか)は視野には入っているはずだが、脳は「見ていない」わけだ。
これと同じことがカメラの画角(広角~望遠)でも起きている。
カメラのレンズは実際に窓の周辺部分を切り捨ててしまうから、対象物が大きく写る。
一種の錯視と言えるのかな。
地平線から上ったばかりの太陽や月が大きく見えるのと同じ。実際には同じ大きさなのだが、すぐ隣りにビルのシルエットや山波があるから、それと比較して見てしまい、大きく見える。
空高く上ってしまうと、回りには何もなくなるので小さく見える。

↑42mm相当 ↓26mm相当 XZ-10で

渋井桜の不思議
外に出て見ると、日陰桜も満開。春だわ。
でも、先に咲いた渋井桜はすっかり散ってしまった↓

しかし、ここでまた不思議が……。
花びらがすべて散っているのに、なんだか色褪せた花が咲いているように見えてしまう渋井桜。
普通は花が散ると同時に緑の葉っぱが出てきて、いわゆる「葉桜」になるのだが、渋井桜は葉桜にもならず、枯れた花がついているような姿になっている。でも、花は確実に散っているはずだ。
近づいて見ると……。

↑わずかに残っている花。

↑咲き始めのときにも気づいていたが、この桜、妙におしべが長いのだよね。花びらが落ちた後も、おしべや萼が残って、枯れた花のように見えているのかな。
2021/04/02
翌日、もう一度確認してみた。

↑左がしだれ桜。右が花が散った後の渋井桜。

↑↓しだれ桜は満開。


↑渋井桜の花は散っているのだが、花びら以外の部分がこんな風に残っている。
2021/04/06
その後、この日記を書いていて、本当に花びらは散って、おしべと萼だけが残っていたのだろうか? と気になり、もう一度確かめに玄関を出た。

萼部分はさらに縮んで、葉っぱも出てきている。

↑↓う~ん? これは花びらが枯れて落ちずに残っている??

……どうも枯れた花びらが残っている感じだ。つまり、渋井桜は散らずに、花びらは木についたまま枯れていくということなのか?
それって、桜の概念から外れているような……。ピンク色のまま散って行くから桜は愛されているところがあるのに、渋井桜は散ることをギリギリまで渋っている? ほんとに渋井陽子のような……??
さらによく見ると、木の幹からも直接若葉が出てきている↓。

まだまだ生きるんだ! と主張するかのように……?
で、さらにさらによく見ると、木の幹からは、桜ではないもの?も出ているような……??

↑これは桜の葉ではないよな。

↑裏側に胞子のようなものが……

↑こんなもののために自分の身体の養分を与えているのだな。
これまた、後輩たちに自分の身をもって栄養を与え、育てている渋井陽子の姿に重ねてしまう。
いち早く咲いて、さっさと枯れてしまい、枯れてもなお散ることを拒否してしがみつき、花が終わっても自己主張し、さらには自らの身体を捧げて別の命を育む渋井桜。まさに渋井陽子の姿だな。