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のぼみ~日記 2020

2020/10/29

中国海城・三学寺から持ち込まれた中国獅子



さて、山県有朋記念館へ戻って獅子像とご対面だ。

駐車場は空っぽで、周囲には人影はなかった。

斜面を登っていくと……


いきなり目の前に目的の獅子像が現れた。


この獅子像については、コラムや日記で何度か書いたことがある。
最近では2年前にも「靖国神社の「狛犬」と脚気」というタイトルで当日記に書いた
この山県有朋記念館庭の獅子像についての部分だけをごく短く再掲すると、

……という次第なのだ。

靖国神社に置かれた白い石の一対は、大清光緒2(明治9=1876)年、保定府深州城の李永成という人物が三学寺に奉納したものだ。明治期だからまだ新しい。
一緒に見繕って選ばれた「時代もあり、形のよい青石の一体」というのが、今目の前に現れた摩耗の激しい獅子像だ。

写真では見て知っていたが、実物とご対面するのは初めてである。
改めてよく見ると、靖国神社の一対とはまったくタイプが違う。
日本でよく見る中国獅子は、北獅と南獅に大別できるが、この獅子はむしろ東大寺南大門の獅子像に近い。スッと背筋を伸ばしたスタイル。
摩耗が激しいのは、砂岩系の脆い石だからか。時代も靖国神社のものよりずっと古そうだ。
選定・調達にあたった奥中将の書簡には「大きいほうの獅子像はいかにも新調物にて見苦しい。青石の獅子は時代もあり、なかなかのものだが一対そろっているものがない」というようなことが書き記されていた。当時でも、この獅子が古いものであることはすぐに分かったのだろうが、当然、ここまで摩耗してはいなかったはずだ。

皇居に運ばれ、有朋の家か別邸(都内の自宅・椿山荘の他に、小田原の古稀庵、京都の無鄰菴を所有)に持ち込まれたのだろう。有朋の死後はどこにあったのか分からないが、最後はここまで運ばれてきたわけだ。
有朋は庭園造りが趣味で、他にも指揮して作らせた庭があちこちに残っているが、天皇から下賜された獅子像だから、ここに運ばれる前は、おそらく自己所有の椿山荘か古稀庵あたりにあったのではないか。
数奇な運命の獅子像だなあと、ぐるっと一回りしながら、感慨深く眺める。




胸の瓔珞がまだ辛うじて分かる。「狛犬」ではなく、中国獅子である証だ。顎の下のつっかえ棒のように見えるものは、顎が落ちたので後から補修したのかと思ったが、触ってみても補修したようには思えず、最初からこういう造形だったようだ。髭に似せた補強だったのかしら?



後ろ脚の付き方が独特というか、かなり無理があるようにも思える。





尾は分かりづらいが紐状で、地面に垂れて巻いているようにも見えるが、台石と一体化しているような感じで、判別が困難だ。



もしかして、伊東忠太の狛犬はこの獅子の造形に影響を受けたのかも……と思った。


靖国神社にある忠太狛犬。前脚を突っ張った姿勢や、尾が紐状であること、顎の下の髭などが似ている?

さて、開いていればせっかくここまで来たのだから、館内に入ろうと思ったのだが、どう見ても閉まっている。
入り口はピタッと閉められていて、人の気配がない。

入り口らしき表示もなく、ドアも窓も全部閉めきっている
左側の青い壁のほうの建物が、小田原にあった有朋の別荘「古稀庵」敷地内にあった建物を、関東大震災で被害にあったのを機に、バラしてここまで運んで移築したという。

小田原の別荘を移築したのがこの青い部分。設計は伊東忠太。

その青い建物のほうをよく見ようと近づいて見たが、やはり締めきっている。
まあ、誰も来ないしね。いちいち開けてられないんだろうなと思い、そのまま帰ろうとしたが、助手さんが「灯りはついてるのにね」という。
よく見るとうっすらと中から灯りが漏れている。人がいるようだ。
しかし、小さく「入口」と書かれた扉はピッタリ閉まっている。
思いきって扉をノックして声をかけると、女性の声で「はい」という返事があった。
扉に手をかけると、鍵はかかっていない。
「どうぞ」と言われ、そのまま中に入ると、年輩の女性が一人で受け付けクローク風のところにいた。

ここまで来たら引き返せないので、700円×2を払って、中を見ることにした。
スリッパに履き替えて、手をアルコール消毒して……。
ただし、いきなり「撮影禁止」の表示が眼に入る。

展示物は有朋由来の衣服や勲章、サーベル、書類、皇室から賜った美術品など。

一通り見ると、珈琲を出してくれるというシステム。他に客は誰もいない。

山縣家の系譜

一階には、有朋の曾孫である山縣有信氏の妻・山縣睦子氏が掲載された記事の切り抜きや関連書籍などが展示されていた。
一瞬、え? 今、ここにいる女性が? と思ったが違った。
山縣睦子氏は大正13(1924)年新潟市に生まれているので、現在は90代の高齢で、ご存命らしいが「今はもうここには来ていない」とのこと。
農業・林業にはまったくの素人でありながら、昭和49(1974)年に夫・有信氏が急逝した後、山縣農場の経営を引き継ぐことになり、その後は(社)日本林業経営者協会婦人部会会長、栃木県選挙管理委員会委員、県森林審議会委員などに就任。(財)森とむらの会理事、MORIMORIネットワーク代表、(財)山縣有朋記念館理事長、栃木産業(株)代表取締役などを務めたという。

そこで、改めて山縣有朋の子孫と、この矢板の「山縣農場」の歴史について、ざっと調べてみた。

山縣有朋は29歳(奇兵隊総督時代)のときに、13歳年下である長州藩の庄屋の娘の石川友子と結婚。友子との間に3男4女が生まれた。
しかし娘1人以外、6人の子が次々に夭逝する。跡継ぎがいなくなり、有朋は姉の次男の伊三郎を養子に迎えた。


伊三郎は公爵家を継ぎ、徳島県知事、枢密顧問官などに就任。その息子・有道が山縣家を継ぎ、宮中侍従、式部官を勤めた。
その有道の長男・有信は矢板市長に就任。睦子氏はその有信の妻で、山縣農場を引き継いだ。


↑こういう家系図になるのだろうか。

「官有地第三種」が明治政府高官らに与えられた

では、そもそもこの矢板市伊佐野という土地に広大な「山縣農場」ができた経緯はどんなものだったのだろう。

このへん一帯はもともとは所有者のいない原野で、明治に入ってから、「地所名称区分」によって土地の所有者を決める際、官有地第三種というものに分類された。
官有地というのは、所有者がいない、または不明の土地(河川敷や里山や入会地的な土地など)を一旦国の土地としたもの。それをさらに

の4種に分けた。
那須には広大な入会地や原野があり、それらがすべて「第三種官有地」とされた。明治政府はそれを政府高官らに払い下げて入植者を募らせ、農地などに転換する施策を進めた。
払い下げられた面々は、三島通庸(薩摩藩士・栃木県令)、青木周蔵(長州出身・山縣内閣の外務大臣)、山田顕義(長州藩士・陸軍中将)、大山巌(薩摩藩士・陸軍大将)、西郷従道(薩摩藩士・海軍大将)、松方正義(薩摩藩士・総理大臣)、佐野常民(佐賀藩士・農商務大臣)、品川弥二郎(長州藩士・内務大臣)……ら(かっこ内は出身と存命中の主な役職)。山形有朋も官有地払い下げ・入植を希望したが、平地のほとんどはすでに前述の政府高官、旧藩主らに取られてしまっていて、原野と山林だけの伊佐野が割り当てられたらしい(Wikiなどによる)。

伊佐野はもともと入会地(地元民が共有管理する里山)であり、そこに住む人たちはこの地から薪などを得ていた。当初は渋沢栄一がこの地を所望していたが、地元民の猛反発に遭って手をつけられずにいたところを、有朋は地元民のもともとの権利を守ると約束して渋沢から入植の許可を譲り受けたという。規模は「自然林150町歩、草山600町歩」。
その後も入植者を募る際、
土地を持たない農家の次男・三男という条件をつけた。農業を富国の基本と考える有朋は、一定の条件を満たした小作人に土地を与えて自作農を育てることを目指した。住まいを用意し、入植者の子弟のための学校を開くなど細やかな配慮も怠らなかった。(Wiki)
……という。

それにしても、明治新政府になってからも、薩長閥による殿様政治の基本は変わらなかったのだと分かる。
官有地・官有財の払い下げに関しては、「開拓使官有物払下げ事件」というのが歴史教科書にも登場するが、このスキャンダルをうまく利用して伊藤博文(長州藩士)がライバルの大隈重信(佐賀藩士)らを政界から追い落とす「明治十四年の政変」に成功し、その後の長州閥政権の基礎を固めた。
そうした構図も、現代日本の政治に亡霊の如く甦っているなあ、と嘆息してしまう。

「皇居の狛犬」?

さて、話を有朋記念館庭の中国獅子に戻そう。

管理している年輩の女性(山縣一族なのかどうかは訊かなかった)に、外の中国獅子を撮りに来たのだというと、一時期、「あれは皇居にいるもう一体の狛犬と向き合う形で置かれている」という説明をしていたところ、あるとき「それは違う」と、資料を文書にして持参した人がいて、それ以後は、その「皇居の狛犬と向き合っている」説は引っ込めた、という話だった。

二階の窓から眺めた庭。獅子が向いている方角は確かに東京方面のような気もするが……。

この中国獅子の出自についてはすでにいろいろな資料が残っていて、狛犬研究では詳細な調査で知られる片岡元雄さんもネット上で何度も書いて発表している。
管理している女性も「要するに戦利品、ということなんでしょうね」と言っていた。

それにしても、「皇居の狛犬と向き合っている」という話はどこから出てきたのだろうか。

片岡さんによれば、皇居の一角に、日清戦争で戦死・戦病死した将兵の肖像と名簿、使われた兵器や軍備品、戦利品などを収めた「振天府」という施設があり、その屋外に、台湾出兵の後、台南(台湾南西部の都市)から持ってきた一対の獅子像が置かれていたことがあるそうだ。
その石獅子についての記事が「臺灣石獅地圖」というサイトにあることも、片岡さんが見つけ出している。

この獅子像一対が今も「振天府」屋外の東屋そばにあるとすれば、「皇居の狛犬」というのはそのことなのだろうか?
しかし、この獅子像は一対あって互いに向き合っており、中国海城三学寺から持ち込まれた「青石の一体」とは何の関係もない。
どうも、どこかで誰かが適当な話を作り上げて、それが伝言ゲーム的に伝わったのではないだろうか。

そんな話までくっついてしまうと、ますますこの石獅子の孤独はいかばかりかと思ってしまう。
靖国神社の獅子も振天府屋外の獅子も一対で運ばれてきたが、有朋記念館庭の獅子は最初から一体しかいなかった。しかも、日本に運ばれてからも場所を何度か移され、最後は訪れる人もあまりいない場所にポツンと置かれている。
摩耗が進み、もうすぐ獅子としての形もなくなってしまうだろう。
なんとも感慨深いというか、いろいろなことを考えさせられる。
管理する女性に、庭の獅子像はここに運び込まれる前はどこに置かれていたのかと訊いたが、分からないとのことだった。


庭の中国獅子以外では、昭憲皇太后が所有していたという二匹の犬が毬にじゃれつく置物と、首を後ろに向けた獅子が取っ手となっている茶釜?のようなものが目を引いたが、他には、入口脇(外)に置かれた大きな水鉢が面白かった。
中国から持って来たものらしいが、今となっては由来は分からないのだそうで、割れ目を修繕して、メダカの水槽代わりになっている。これが記念館の陳列物の中ではいちばんよかった。



入口の脇に置かれた水鉢。獅子の意匠がとてもよい。おそらく中国から持ってきたもの。




帰り際、庭の横にある社を見ると、一瞬、石が狛犬に見えたりして……。



隣の住友ミュージアム脇には、神社入り口の案内標識があったが、荒れ果てた道ですぐに通行止めになっていたので諦めた。熊も出るそうだし。
さて、後は紅葉をゆっくり楽しみましょうかね。

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