コロナ疲れもあって、社会の理不尽さを嘆いたり憤ったりする体力もなくなってきた。
先人たちは、様々な失敗体験に基づいて、たとえば「三権分立は大事ですよ」とか「ルールにそって物事を決めましょう」ということを大切にしてきました。こうした知恵が憲法や法律に書き込まれています。
今を生きている人だけで物事を決めてしまうと、大変な悲劇を受けます。
(略)
たとえ「多数派が支持していること」でも「やってはいけないこと」があると考えるのが立憲主義であり、政治的リーダーの本質的な務めではないでしょうか。
(安倍首相は「戦後民主主義のあだ花」か? 政治学者中島岳志が分析する「本質を忘れたリーダー」とは HUFFPOST 2020/06/10)
「死者の声」に耳傾ける、という言い方をしなくても、要するに「歴史に学ぶ」ことが大切だという話だ。ただ、その「歴史」は学校で教えてくれるわけじゃない。あれはすでに「編集済み」の読み物だからだ。
出発点は、疑問を持つこと。想像力を働かせること。そして、なるべく自分好みの期待値や裏読みを排除して、実際はどうだったのかと判断していく姿勢だろう。
墓地にある石仏が、かつては墓そのものだったらしいと気づいたのは最近のことだ。その時代の人たちの死生観や生活ぶりはどうだったのか。今とは相当違うものだったのだろうとは思うが、具体的なイメージはなかなかわかない。
ただ、社会全体がどう動いたのか、そうなっていった要因にはどんなものがあったのかは、ていねいに調べていけば見えてくる。
645年に起きたとされる「
乙巳の変」(私たちの世代はその年号は「大化の改新」と丸暗記したが、今はこう教えているらしい)が実際にはどんな背景をもち、どのようなものだったのかは、今となっては分からないし、それほど重要だとも思えない。
しかし、幕末から明治にかけての動き、日中戦争から太平洋戦争に至るまでの世相……そういうものはかなりはっきり見えてくるし、今の社会にも大きな影響や因果関係を持っている。これは為政者だけでなく、すべての人が知っておかなければならない事実だ。
しかし、学校の歴史の授業ではそこを教えてくれない。何年に何が起きたか、そのときの人物の名前は、事件の名称は……そんなことを暗記するだけで終わる受験勉強。
歴史を学ぶというよりも「歴史
に学ぶ」ことが大切なのだ。
しかし、受験生時代にはそんな余裕はまったくなかった。時間的余裕も、精神的な成熟度も足りなかった。
また、「この子は歴史に何を学んだのか」をはかる入学試験などというものはなかったし、今もない。
歴史や文学を学ぶことに比べれば、英語のルールを知るなんてことは単純な「技術」だから、簡単なことかもしれない。
必要な技術なら、なるべく合理的に学んだほうが「得」だ。
ここひと月近く、ずっと「ゴージュン式英語塾」に打ち込んできたが、改めて、日本語と英語の違い、日本人が英語を使えるようになることの難しさを痛感している。