このところ毎日、起きてから寝るまで、ほとんどパソコンの前に座って「紙の本」を作る作業をしている。
ISBNコードを取得した「出版者」として登録し、Amazonでも販売できるようにしたことはすでに書いた。Amazonに出そうが出すまいが、作った本はまったく売れない。
それでもなけなしの老後資金をつぎ込んで赤字作業を続けているのは、自分にとっての「終活」なのだ。
今の時代、世の中があまりにも疲弊し、劣化してしまったのを見ていると、この「世界」に生きる自分の命に対する未練や執着はどんどん薄れていく。ああ、歳を取るということはこういうことなのか……と思うが、逆に執着や怒りや嫉妬をどんどん強めながら年老いて行く人もいるので、歳のとり方はいろいろなのだろう。
オンデマンドブックは注文があって初めて一冊生まれる。だから、注文がなければこの世に出てこない。流産みたいなものだ。
だから、一冊は国立国会図書館に納本する。形あるもの必ず滅す、ではあるが、国会図書館が現在の機能を維持し続ける限り、私の死後も誰かがその本を手にする(あるいはネットでコピーを入手する)可能性は残るから。
そうした儚く、人から見れば痛々しい望みだけを拠り所にして面倒な作業を黙々と続けられるのは、やはりなんだかんだいっても「この世」に対しての愛情というか、自分がほんの少しでもそこに存在していたという一種の同胞感情(?)のようなものを持っているからなんだろう。
『医者には絶対書けない幸せな死に方』のあとがきにもそんなことを書いた気がするなあ、と思って原稿を掘り起こしてみた。
「意味のあること」とはなんでしょうか。何に対しての「意味」でしょう。
自分が生きているこの世界に対してなんらかの価値を生み出すという意味であれば、まずは「人間社会」を愛することが大前提になります。
生物的には生きる能力がありながら自殺する人の多くは、この人間社会を愛せなくなったから死を選んだのだと思います。
実際、人間社会には、愛せないこと、理不尽なことが多すぎますが、それでもこの社会を愛するという気持ちを持ち続けないと、生きている意味を見いだすのは困難です。
……そうね。今自分がやっていることが「意味のあること」だと思うのは、この世界をまだまだ愛しているからなのだろう。
しかし、今はさらに追い詰められた気持ちになっている。
多種多様な生きものがいる「自然界」という世界は理屈抜きに素晴らしい。美しいと感じる。でも、文章を書くことやメロディを作ることは自然界とはまったく関係のない行いであり、人間社会を「価値」「意味」の大前提としている。
その「人間社会」に対して、自分はどんどん愛情を失っている。怒りや絶望というよりも、こんなもんだったのか……という諦観。
しかし、人間社会は一様ではないし、今が時代としてひどい時期にあるとしても、この後、とことん落ちるところまで落ちて破壊された後に「再生」するかもしれない。その再生のときに、一冊でも自分の書いたものが残っていたら……という思いで、本を作っている。
命も世界も単層ではない?
この世界──自分という肉体が知覚している宇宙と、自分の中にある宇宙を同じものだと考えると、とても切ないことになる。
これはマクロコスモスとミクロコスモスという意味ではない。「物理世界」と「精神世界」というのとも少し違う。
世界は複数の種類のものが混在していて、全体としては「複相」なのではないか、という考えかた。
パラレルワールドは、同じような世界が並列しているイメージの概念だが、今、私がイメージしているのはもっと入り組んでいる構造。むろん、「この世」は小さな世界であり、より大きく複雑な世界の中に組み込まれている。
我々が自分を含めて生物の命と考えているものは、その小さな世界の中で生まれ、消滅するに過ぎない……というような……。
小さな世界の中にたまたま生じた小さな存在であることを認めた上で、小さい生命としてなし得ることをなしとげて死のうとすることを、我々は生物の「本能」と呼んでいるのではないか。
今、私がやっている、傍から見たら儚く、痛々しい行為も、本能からきているのだから、「仕方がない」よね。
いいとか悪いとか、正しいとか間違っているとかではない「本能」なのだから。