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のぼみ~日記2019

2019/03/09

今日は第二土曜日なので、施設でのウクレレ教室の日なのだが、花粉症もひどいし、親父ももう意識朦朧としていてウクレレもなにもないだろうし、スタッフにしても状態が悪くなった親父や義母の介護でウクレレどころじゃないだろうし……ということで、施設に電話して断った。
施設長が出て「分かりました」と答えたが、その後、「お父様、今日は息子さんがウクレレ教室で来るので、すでに車椅子に移って待ってますよ。最後に演奏聞かせられたらよかったのに」と言う。
ええ~。それじゃあ、行かないわけにいかないじゃん。
ずっとギターは弾いていないので自信がないから、EWIとウクレレを持って出かけた。

施設に着くと、シバニャンが僕の代わりにウクレレをポロポロ弾いているのが聞こえてきた。
親父は車椅子に座っていたが、僕のことを見る目に力がない。分かっているのかしら?
iPadから「MISTY」と「枯葉」のMIDI伴奏を出して、EWIを吹く。
他に、『上を向いて歩こう』なども。
親父は何も言わなかったが、演奏が終わった後、拍手の代わりにそっと両手を合わせた。
スタッフのシバニャンから「拝むんじゃなくて拍手でしょ」と言われていたが、今思えば、あれは精一杯の意思表示だったのだろう。

2019/03/11

Set me free ... 僕の歌を聴きながら……


朝、デイホームの施設長から電話。
「訪問看護師さんを呼びました。お父様、肩で息をしているので……」
「分かりました。今から行きます」

いよいよ……かな、と、ここ数日は毎日、親父の様子を見るたびに覚悟はしていたが、今までのこともあって、まだまだこれから先がある、という気がしていた。
この電話をもらったときも、今日ということはないだろうと思った。

ホームに着いて、親父の部屋を覗くと、早い間隔での喘鳴。想像していたより切迫していた。
そこに看護師さんが到着。体温、呼吸数、心音、肺の音、血圧などを測る。
このままもうよくなることはないだろうということは分かった。でも、その時点ではまだ、「今日はまだないだろう」という気がしていた。
こういう状態でも耳は聞こえていることが多い、というので、部屋にあったラジカセに、持ってきたCD『So Far Away たくき よしみつ Songbook1』を入れて再生する。
1曲目の「流れてしまった時は戻せないし 変わってしまった心も隠せない……」という出だしの歌詞が、作った40年前とはまったく違う意味を持って頭に入ってくる。
その後、隣の部屋で看護師さん、施設長と僕の3人で、これからのことを話し合う。
このまま「見守る」ことの最終的な確認、とでもいうか……。

看護師さんが最後に書いた連絡メモ

それが終わって、看護師さんが「では、一旦戻ります」ということで、玄関を出る前にもう一度部屋を覗くと「あ……止まってる?」と言った。
まさに息を引き取る瞬間だった。
僕は脈を確認されている親父をただ見守るだけだった。
部屋にはCDの11曲目『Orca's Song』が流れている。

Set me free, rushing waters fall fast away.
Go with me to a deep blue world way beyond.

All the unhappy ones go rushing by,
far and so far away they'll go.
Can you hear me cry, see my eyes,
feel my hands, and share all my heartache?
Let me go, please I only want to go.

ああ、なんというタイミングなんだろう。この歌は、こういうことだったのか……と思った。

辛かったこと、悲しかったことはすべて、はるか遠くへ押し流されていく
あなたには私のこの叫びが聞こえますか? 私の目が見えますか?
私の両手を感じ取れますか? この心の痛みを分かち合ってくれますか?
さあ、もう行かせてくれ  私はもう旅立ちたいんだ

本当に、僕がそう歌っているのを聴きながら、親父は旅立った。

……なんだかあまりにできすぎていて、嘘みたいだ。

親父のことだから、ここから先が長いのだろうなと、漠然と信じていたので、すぐには「死」を実感できなかった。
呼吸が楽になってスヤスヤ寝はじめたように見えてしまう。
……楽になってよかったね、とか、そういう気持ちでもない。ただただ「え? そうなの?」という、スポンと何かが抜け落ちたような感覚。

この瞬間にも、施設スタッフは他の入所者やデイサービス利用者をトイレに誘導して介助したり、昼食を作ったりしている。入所者、利用者はすぐそばの居間でくつろいでいるが、誰も親父が今死んだことには気づかない。ソファで横になっていたり、テレビを見ていたり……。
義母も、いつものようにテレビを見ている。

主治医の院長は数十分で駆けつけるだろうとのこと。
助手さんに電話して告げると、やはりまだ先だと思っていたようで、驚いていた。
死化粧用のお洒落な服を探して持ってきてくれと伝えた。

主治医の院長が来て、死亡確認。死亡診断書を書いてもらう。
いくつかやりとりして「老衰ということでいいですか?」「はい」……と。
大腿骨骨折の手術自体は想像以上にうまくいっていたので、骨折が死因にはならない。骨折する前からどんどん状態が悪くなっていたので、文字通り「老衰死」なのだ。
家でみんなに最後まで親切にしてもらいながら老衰で死ねるなんて、今ではごく少数の人しかできない「幸せな死に方」だ。
すごいことなんだよなあ、と改めて思うが、そのときはまだポーッとしていて、そこまでは考えられなかった。

死亡診断書の死因欄に「老衰」と書いてもらえる人は少ない。

葬儀屋さんをどこにするかとか、目の前のことも、あれだけ準備していたのに、気持ちがふわふわしたままで、テキパキとは動けない。

院長が帰るために車に乗り込んだとき、助手さんが洋服一式を持ってやってきた。帰り際の院長にお礼を述べ、見送る。
持ってきたのは冬物のジャケットとズボン。僕が何かのために持っていた新品のシャツとネクタイ。
部屋に戻り、スタッフが親父に服を着せた。最後は僕がネクタイを結んだが、きれいにまとまらず、やり直した。
まだ身体は柔らかく、着替えさせるために身体を横向きにさせたりするのを手伝ったとき、蒲団に手を置いたが、背中の下が暖かいので驚いた。

スタッフに着替えをしてもらった親父。ネクタイだけ、僕が結んだ。


お昼なので、スタッフは忙しく台所で食事の準備をしている。その仕事の合間をぬって、みんな親父の部屋に来て、身体をさすり、最後のお別れの言葉を言う。
「今日はこれから忙しくなるから、二人とも今ちゃんと食べておいて」と、スタッフが僕らの分も昼食を作ってくれた。

施設スタッフが用意してくれた昼食を二人でいただく。

葬儀社の手配などがあるので、一旦家に戻る。
ここがいいだろうと決めていた業者があるのだが、施設によく花を持ってきてくれる(営業?)お花屋さんが葬儀社もやっているというので、そこも含めて3件ほど候補を選び、ネットでもう一度調べてから電話。最初に施設で教えてもらった花屋さんに電話して、結局、そこで決めて、残り2件には電話しなかった。

後から分かったが、シンプルな火葬式をするために大切なのは、きちんとした霊安室を自前で持っているかどうかが重要かもしれない。業者によってはトランクルームみたいなところを借りているところもあるようだし。
今回お願いした花屋さんは、最近自前の霊安室を作ったので云々というようなことを電話で言っていて、そのときはピンとこなかったのだが、後から、ああ、こういうことか、と分かった。

2時半までにはご遺体を迎えに行きますということなので、助手さんと二人で再び施設に。
スタッフと話をしながら待っているところに霊柩車到着。
スタッフや僕も手伝って、ストレッチャーにのせて、霊柩車へ。

今どきの霊柩車。ナンバーが「南無南無」なので分かるだけ。

手続きのために僕らもそのまま霊柩車の後ろについて、花屋さんの霊安室に向かう。

花屋さんは、完全に葬儀社に特化していた。ROOM1 ROOM2 とある立派な部屋が霊安室だった。

ここで葬儀もできてしまうな、というくらい立派な霊安室。


ここで申込書に記入して、死亡届や火葬許可などの手続きのために認め印を1つ預ける。火葬は早ければ明日の2時半でできそうだが、決まったら連絡するということで、一旦、デイホームに戻る。

ホームはいつもの日常で、入居者もデイサービス利用者も何かあったとは気づかないまま過ごしている。
すぐ隣で僕らが葬儀の話などを普通にしているのだが、誰も気にとめない。
みんな自分の世界、半分夢の中のような閉じた世界に住んでいるんだなあ、と思った。

家に戻り、葬儀屋さんからの連絡を待っていたが電話がないので、ライチェルを連れて散歩。
地蔵堂まで行って、いつもとは少し違う気持ちで地蔵や如意輪観音像を見た。

今日の散歩はここを目的地にしようと決めて歩き始めた。

2019/03/12

一夜明け、昼前に駅に到着した叔父夫妻を迎え、4人で行川庵に行き、昼食をとった。
ここの厨房で働いているご町内のWさん(僕らより年上の女性)と目が合い、「いらっしゃい~」と声をかけられる。
Wさんは僕が毎日散歩しているとき、ちょうど仕事を終えて家に戻ってくるタイミングなので、よくすれ違う。毎回、必ず車を停めて、窓を開け、「レオ~。元気~?」「ライチェル~。よかったね~」と声をかけてくれる。
火葬の時間が迫っているので、急いで5合盛りの蕎麦と天ぷら2皿を食べていると、「これはWさんからです」と、思いもかけぬ蕎麦だんご2皿が差し入れされた。
叔母が甘い物好きだそうで大喜び。

4人で5合盛り。


なんとか4人でしっかり平らげ、霊安室へ向かう。


霊安室で。



日光市がやっている火葬場は山の中にある。友引の日は休みだそう。明日が友引だということは後から知った。友引の前、気候もいい時期だからか、空いていた。

火葬場。


施設から施設長と看護師の資格も持っている経理担当のふささんが来てくださっていた。
スタッフの一人・シバニャンが、親父に「いちばん好きな食べ物は?」と訊いたときに、迷わず「オムライス」と答えたそうで、ふささんはシバニャンが今朝親父のために作ってくれたオムライスを持ってきていたが、「食べ物はお棺には入れられません」と断られて、そのまま持ち帰ったみたいだった。(僕は気づかず、後から助手さんに聞いた)
骨の中にはチタン合金の人工骨頭があった。骨壺には入れられませんというので、「珍しいものだから」と、無理を言って熱いのに風呂敷に包んで持ち帰ることにした。
高価なパーツなのだが、体に入っていた時間は短かったね。
骨になった親父を骨壺に入れて外に出ると、駐車場にはうちの車以外、1台も停まっていなかった。
静かだ。


叔父夫妻を連れて家に戻り、親父の思い出話などをしながら、朝、買っておいたいちご大福を食べた。
夕方、駅まで叔父夫妻を送って別れた。

これからいろいろな事務処理などがあるので、取り寄せなければならない書類などを確認しはじめる。
手元にある膨大な書類、施設との契約書や介護用品のレンタル契約書、保険証、介護計画書、お薬手帳……これ、全部、この瞬間に必要なくなったのだと思うと、なんだか不思議な気がする。

自分のほうが絶対長生きすると信じきっていたお袋は10年前に先に逝った。
自分の身体もかなり弱ってきたと自覚した頃だっただろうか、一度だけお袋に「よしみつはここまで育ててもらったんだから、パパのことは最後までちゃんと面倒みなさいよ」と言われた。
そのときは、こんなに大変な、というか「複雑な」ことだとは思わなかった。
「ちゃんと死ぬ」「ちゃんと死なせる」ことがこんなに難しいことだとは……。

でも、最後の最後は、見事だったね。
命日は日本中の人が忘れない3.11。僕がラジカセにセットしたCDが演奏し終わる前に、Set me free... と聴きながら。

ありがとう、親父。


親父と約束していた 「YouTube葬」 






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