月と地球の距離が接近しているのはまだ続いているようで、半月になってもかなり大きく見えるし、満月並みに明るい。
今夜は薄曇りで星が一つも見えないが、月だけは煌々と輝いている。
このところずっと、「死に方」「死に時」について考えているが、死んだ直後の物理的な処理(こう書くと抵抗を感じる人が多いかもしれないが)についても、もやもやしていることがいくつかあったので調べてみた。
墓とか墓地というものについては、20代の頃からずっといらないし、環境破壊だと思っていた。
お袋は熱心で、親父と再婚してからというもの、「鐸木家の墓はどうなっているのか」と問いただし、信夫山の公営墓地の端っこに土地だけ持っていると知って、ほとんど自分ひとりで墓を作ってしまった。
墓相学の本を2冊、「よしみつも読んでみなさい」と渡され、読んだりもした。
お袋が石屋に発注して作った鐸木家の墓には、現在、祖父母と叔母(親父の姉。生涯独身だった)とお袋の4人の名前が刻まれている。
祖父は終戦直前に栄養失調で亡くなったと聞いている。長いこと本家の墓の隅に骨壺が収められていたのをお袋が「そんなのはいけません!」と祖母や親父を説き伏せて、独立した墓を作ったわけだ。
親父に「死んだ後、遺骨はあの墓に入れるということでいいか?」と確認したところ、あんまり気乗りしないような顔で「そういうことになるんだろうねえ」と答えた。どうも、あの墓は居心地が悪そうだと感じているようだ。でも、お袋があんなに張りきって作った墓だから、そこに入るのは嫌だとも言いづらい……ということか。
「海がいいなあ。いわきの海岸に流してくれ。子供のとき、あのへんの海を見た記憶がある」
などとも言っているので「じゃあ、分骨して、半分はいわきの海に流して、半分は信夫山の墓地に入れればいいわけ?」
と再確認すると、「う~ん……そうだねえ」と言葉を濁す。
困るんだよなあ、はっきりしてくれないと。分骨とか面倒だし。
自分が死んだときは、骨は粉々に砕いて適当に処分してくれていい。ただ、子供はいないので、それをやってくれる人間がいるかどうか、いるとして誰になるのかが分からない。
助手さんがあとに残ればやってくれるだろうが、僕があとになってしまったらどういうことになるのか。
というわけで、鐸木家の墓に刻まれる名前はおそらく親父が最後になるだろう。刻むのも石屋さんに頼まなければならないから面倒だなあ、という気持ちが先にたつ。
こういうのは、デリケートな問題なので、みなさんそれぞれご自分の考えに従って決めればいいことで、どうするのがお勧めとか、こうするのがいいという話をしているわけじゃない。
ただ、僕自身は、死んだ後はただでさえ周囲の人に迷惑をかけるのだから、極力、「物体」を残さないようにしたい。遺品整理なんかも、大変だしね。
で、改めて確認するためにいろいろ調べてみて分かったことがいくつかある。
- 遺骨は粉々に砕いて粉にしてしまえば(粉骨)どのように処分しようが常識の範囲内ならなんら法律には触れない
- 散骨というと海に撒くイメージが定着しつつあるが、実際には地に埋めてしまうのがいちばん楽だろう
- 粉骨はやろうと思えば自分でもできる(丈夫なふくろに入れてハンマーなどで叩いて砕く)が、粉骨専門業者に依頼すれば数万円でやってくれる
- 遺骨はゆうパックで送ることができる(クロネコや佐川は運んでくれない)
- どこに骨パウダーを撒いたかは、あまり公表しないほうがいい。土地の所有者ってのが必ずいるはずだから
自分が死んだときはこれでいいのだが、自分が「遺体処理責任者」になる場合は、なるべく死者の生前の希望に添ってやってあげたいから、とても面倒。「面倒」というのは、作業に時間と金がとられるというだけでなく、生きているうちに自分の死後、遺体処理をどうしてほしいかをはっきり意志表示しない人が多いからだ。
粉骨する業者のサイトをいくつか見ていると、いろいろ学ぶことがある。
興味深かったのは、火葬する地域によって使われる骨壺のサイズが違うこと。
- 3寸 直径約9cm ……四国
- 4寸 約12cm ……東海・関西・四国
- 5寸 約15cm ……東海・関西・四国・九州
- 6寸 約18cm ……北海道・中国・四国・九州
- 7寸 約21cm ……北海道・東北・関東・信州・東海・中国・四国・沖縄
- 8寸 約24cm ……関東・沖縄
……だそうだ。
そういえば、叔父(例の、ボルネオで終戦を迎えた叔父)夫婦は最後は奈良県の老人ホームに入っていたのだが、火葬場では骨壺が小さくて骨が入りきらず、入らない骨を火葬場の職員がさっさとちりとりにかき集めてごみ箱(のようなバケツ)に放り込んで持ち去ったのが印象的だった。
後から、関西では骨壺サイズが小さく、火葬した後の骨は一部しか遺族の手に渡らないのが普通だということを知った次第。
遺骨に対する感覚が淡泊なのだろうか。
で、粉骨業者というのはまだまだ新しいビジネスだとは思うが、今後は急増するだろう。
火葬が終わったら、骨壺ごとゆうパックで粉骨業者のところに送ると、細かいパウダー状に砕いて送り返してくれる。
粉にしてしまえば、そこから先はどうにでもなる。一部を小さなガラスケースに入れて家に置いておく、なんて人もいるらしいし、そういう加工サービスもオプションでやってもらえるのだが、僕はそういうのも嫌だなぁ。土に戻る、分子レベルにまで細かく分解されて、世界の中に溶け込んでいき、形は残らないというのがいい。
中には粉骨する機械をレンタルする商売なんかもあって、ちょっと目からウロコだった。
「大切なかたの遺骨を粉にする作業は、ぜひご自分で」というわけだが、助手さんに言ったら「嫌だわ~。冗談じゃないわ~」と即答された。
僕が先に死んだ場合は、僕の骨は助手さんの手によってではなく、機械で砕かれることになりそうだ。それでOKだけどね。
問題は僕があとに残った場合なんだよなあ。そうならないようにしたいものだけれど、計算通りにはいかないのが人生だからなあ。
いちばんいいのは、火葬場で粉にまでしてくれること。今の焼却炉は性能が高く、高温で燃やすことが可能だから、本当は形が残らないで完全焼却することは簡単だという話も聞いたことがある。依頼者の希望で、焼き加減を選べたらいいのだが、そういう要望が増えて、火葬場側で対応してくれるようになるには時間がかかりそうだ。
ともあれ、これからは、葬儀がものすごく増えていく。一方では、葬儀の簡素化を余儀なくされる。従来型の葬儀は、富裕層にしかできなくなるんじゃないだろうか。
葬儀というか、死者を弔うという行為は、物的な豪華さではなく、気持ちをどれだけ寄せられるかが本質なのだから、墓だの戒名だの花束の量だのではなく、メモリアル動画をYouTubeにUPして、離れた人でもそれを見ながら死者との思い出や死者への敬意を持つ時間を作れる「YouTube葬」なんかがあってもいい、と思う。
僕が死んだ後もこの「のぼみ~日記」を残してくれる人がいれば、これが僕の立派な墓になる。
しかしまあ、そういう考えもまた、根深い煩悩だわね。