「運動型」は、路上生活からの脱却を目指すべく、福祉制度や行政にも働き掛けていく活動をしています。
「布教型」は、路上生活からの脱却よりもむしろ内面の救済を目標にして、政治や福祉制度にはほとんど関心がないのです。両者の教会には壁があって、交流も接点もほとんどない。
「運動型」は40年以上の支援の歴史があって、労働運動による支援が盛んな時代は、宗教による支援はむしろ労働者の意識を社会のひずみから目をそらすものだという批判も強く、その中で試行錯誤しながらずっと活動してきましたので、支援の中で「布教をしない」というのは自分たちの信仰的な信念としてあります。
そこからすると、1990年代以降増えた「布教型」の教会の活動は、弱みに付け込んだやり方ではないかという批判があります。また「布教型」の教会は、行政や福祉、他の教会と関わろうとしないという側面があります。
(同ページにある著者インタビューより)
野宿者にとって伝道集会での食事は命綱となる。教会の名前を知らなくても、「カレーの教会」「どんぶりの教会」と識別している人もおり、それは野宿者が生き抜くための戦略であると、白波瀬氏は述べている。しかし同時に、説教や礼拝が説得力を持つこともあるという。野宿者は家族や会社から切り離され、普段は互いの経歴に触れることはタブーの「匿名」の世界で生きている。「承認の不在」の中、生きる意味を求めて教会を訪れる人もまた確かにいるのだ。 ある野宿者の言葉は象徴的だ。
「だからまぁ言うたら炊き出し目当てですわな。でも、それだけと違って、せやねえ、牧師とね、握手するためですわな。伝道集会に行ったら、牧師が「元気にしとったか?」って握手してくれるんやね。それが嬉しいてね。昔はずいぶん世話になったしね、顔見せにいってるんですわ」
教会は食事を提供してくれるとともに、自己を全人格的に受容してくれる場所でもある。その中で自分の生をより肯定的に受け止めることができるという側面も確かに存在すると、白波瀬氏は述べている。
「布教型」教会では、生活保護や自立支援制度などよりも、「霊的次元の救済活動」に力点を置いているという。引用されている地の果て宣教教会の牧師の言葉が象徴的だ。
「主はせっかく福音を聞かせるために、人々を路上に連れ出しているのに、社会復帰を名目に支援することは神の意志に反しています。(中略)野宿者になったことによって教会に来るようになり、生きる意味と価値を見つけた人はいっぱいいるわけです。それを元に戻して福音から遠ざけるのは霊的ではないし、 良くない」
そこから白波瀬氏は、韓国系プロテスタント教会のホームレス支援は、「信仰に基づいた野宿者の自立支援活動」というよりも、「自教会の信者形成」に重点があると指摘している。
「公共領域の中で宗教活動をどう位置付けるか、ということです。社会活動の中で「布教はしない」「他者に信仰を強要しない」ということは、社会の中の当然のルールなわけです。でも、宗教による社会活動の中で、信仰を受容することで生きづらさを克服していく人もいます。それを「布教」だから駄目だといえるのか? どう評価できるのか?」
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