これでもう十分満足だったが、念のため、社殿の奥を覗いてみた。すると……奥の院の前に、小さいのがいるではないか! 遠くてここからでは肉眼ではよく分からない。持っていたのはコンパクト機のXZ-10だけだったのだが、格子の隙間からレンズを突っ込んで無理矢理望遠で撮ってみた。
神使研究では大先輩の福田博通さんは、これを
オオカミではなく「和犬」像だとしている。
おそらく、この高靇神社の前に、河内町立伏の高靇神社を見ているからだろう。確かに、写真で見ると、河内町立伏のほうはオオカミではなく和犬に見える。
しかし、ここ、大網村村社の高靇神社の像──少なくとも外の(明治28年)は間違いなく和犬ではなくオオカミ像だ。となると、屋内にある小さいのもオオカミではないのか?
で、そもそもなぜこの高靇神社は狛犬ではなくオオカミ像なのか?
タカオカミではなく、狼信仰という視点から調べていくと、
⇒このサイトに興味深い記述があった。
下野国は、利根川の支流鬼怒川の流域です。利根川流域の上総(茨城県方面)は早くから開拓が進み、桓武天皇から分家した坂東平氏が入植したことが知られています。利根川流域には平氏に付き従う形で、犬飼の一族、県犬養氏(あがたいぬかいし)が入植していました。
開拓地に犬飼の一族が移り住んだのは、開拓地の田畑を荒らす害獣を狼と犬をかけ合わせた猟犬で駆除するためでした。こうした事情は下野国でも同じことで、下野国にも犬飼を生業とする一族が移り住んだことは確かだと思われます。
高寵神(タカオカミ)とは闇寵神(クラオカミ)と対の神で水源の守り神とされる一方、岡山県の木野山神社や貴布弥神社では狼神とされています。
下野国の開拓が始まったころ、岡山方面から入植した人々が高寵神を氏神として持ってきたのではないかと思われますが、推測の域を出ません。
……というのだ。
これは面白い!
さらに犬飼氏とはそもそもどういう人たちだったのかを説明している部分「詳細解説~犬飼のお仕事」(狸と兎が問答をしている形の読み物になっている)を以下にまとめてみる。
- 犬飼、および犬養姓の起源は官位の名前とされていて、朝廷の狩猟犬を飼う役職だった
- 奈良の長岡宮には十二の門があって名前がついていた。そのうち三つは、県犬養(あがたいぬかい)門、海犬養(うみいぬかい)門、稚犬養(わかいぬかい)門、と名づけられていた
- つまり「いぬかい」氏は宮廷の門番という役目を持ち、そのうちの県犬養氏は県(あがた)の穀物倉庫の番人、海犬養氏は港の倉庫の番人だった。稚犬養氏は犬を育てるブリーダーの役割だったのだろう
- この三つの氏族──県犬養(あがたいぬかい)、海犬養(うみいぬかい)、稚犬養(わかいぬかい)は、吉野の古代豪族、大伴氏の郎党だった
- 言い換えれば、どの犬養氏も警察官的な役割で、その役割を補助する警察犬を育てるという特殊技能が代々受け継がれた
- その「警察犬」は、狼と和犬をかけ合わせた狼犬だった。白村江(はくすきのえ)の戦いのとき、軍の狼を船に乗せて運んだ、という記録もある。このときには近江の豪族・犬上氏も参戦している
- その犬上氏は、滋賀県の大滝神社に伝わる大蛇退治伝説にも登場する。近江の犬上氏は、背後の伊吹山の狼を飼いならして軍用犬にしていたらしい。福井県の日野宮神社にも、伊吹山の狼を連れて行った。犬上氏系の犬飼は、北陸や中国地方へ広がって行った
- そんな風に、古代日本では、犬飼いたちが朝廷の領土が広がるにつれ、狼犬を連れて日本中に移住していった
- 地方に広がった犬飼たちは、警察機能というよりは、地元の要請にこたえて猿などが田畑を荒らす被害対策として犬を使ったので、狼信仰のエリアには「猿神退治」の伝説などが多い
- 丹波の大歳神社には、近江の「鎮平犬」を連れて来たという伝説がある。河内の県犬養氏も裏山にあたる二上山の田尻峠で"田尻こっこ"という狼犬を飼っていた。どこかで人身御供の話があるたびに、"田尻こっこ"は連れて行かれて、最後には一匹もいなくなったという(これは逆パターンで珍しい)
- 一方、橘氏の祖、橘諸兄(たちばなのもろえ)が出た河内の古市(田尻峠の麓)は、県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の出身地でもある。三千代は、皇室に嫁いで皇子を生んだが、安産祈願で犬の腹帯をする習慣はそのときからではないか。三千代の菩提寺・奈良の法華寺では、犬張子を今でも安産のお守りとして分与している。その後、県犬養氏は、橘氏とともに根拠地を山城国(京都)に移した
- 時代が下り、各地の犬飼たちは、地域の水争いの取締役的な仕事もするようになった。水源地を守り、取り決めを破って水を自分の田畑にだけ引こうとする者たちを取り締まった。これが「大蛇討伐伝説」などに変化したのではないか。つまり、大蛇と刺違えで死んだ犬(狼)は、水争いが激化して起きた暴動鎮圧にかり出されて死んだ犬たちの供養の意味があるのではないか
- 犬鳴山(大阪・泉佐野市)の犬塚などはそのための慰霊塔だったのではないか。ここの犬塚伝説は、「宇多天皇の時代(約1080年前)、紀伊の国の猟師が鹿を追ってこの山中に入ると、連れてきた犬が、 突然猟師に吠えかかった。怒った漁師が犬の首を斬ると犬の首は宙を飛んで、木の上から猟師を襲おうとしていた大蛇をかみ殺した。自分を守ろうとして吠えた犬を間違えて殺してしまったことを悔いた猟師は、剃髪し庵をむすんで余生を過ごした」というものだが、実際には大蛇とは水争いの象徴ではないのか
- 犬鳴山周辺は犬飼衆の居住区で、夏の渇水期に警備員として日根神社に仕えていた。柳田国男も「山神が春になると田の神になって里に降りてくる」という言い伝えを取り上げているが、それはまさに水源地を守護していた犬飼たちが犬と一緒に里に下りてくるという意味ではないか
- で、その高野山周辺の犬飼たちは、美濃の国、つまり今の岐阜県に入植し、県犬養氏は板東平氏とともに北関東に入植した。平将門の母の実家は県犬養氏。将門の反乱には県犬養氏のバックアップがあったはず。将門軍が神出鬼没の奇襲で朝廷軍を翻弄できた裏には、狼犬を駆使する犬飼たちの働きがあったのではないか
- しかし、朝廷側も犬飼衆を動員して対抗した。その証拠に、朝廷が将門の霊を鎮めるために勧進した成田不動の境内には妙見堂という立ち入り禁止のエリアがあり、そこには山犬の像が置かれている。朝廷が雇った犬飼一族が近畿から関東に移住してきた証拠ではないか。真言宗の総本山である高野山の麓には狩場明神を祀った神社が点在しているし、将門を討った藤原秀郷の領地、栃木県佐野市にも犬伏(いぬぶせ)という地名が残っている。佐野八幡宮にも猿神退治伝説がある
- このように、近畿から北上してきた犬飼たちは、次第に武士に雇われて地侍化していく。南総里見八犬伝なども、犬飼から侍になった者たちの物語であろう
- 一方、秩父は狼信仰で有名だが、秩父の城峯山に将門がたてこもったという伝説がある。将門本人が立てこもったかどうかは定かではないが、将門軍の残党などが立てこもった可能性は大いにある。麓の椋神社や城峯神社(神泉村)には、藤原秀郷が来て勝利を祈願したという話が残っている。これは地元の犬飼たち(山の民)を使って、地元の民が将門軍に協力しないようにするための工作だったのではないか
- 秩父の十文字峠を越えた信州側の川上村は、狼の血を引く川上犬の産地。川上村の家々は三峯神社の氏子。秩父・長瀞の石上神社の地内にも犬塚が残っている。鉢形城の小田原北条氏に連絡係として使われていた犬たちを慰霊するためのものらしい。前九年の役の際には、源頼義、義家が奥州安倍一族討伐の戦勝を三峯神社に祈願している。その後、奥州平泉に勧進したのが衣川三峯神社。つまり秩父の犬飼衆を奥州に連れていったようだ
- 福島県の山津見神社には、前九年の役の際、源頼義が安倍氏の武将・橘墨虎を退治したときに山津見神社の白狼が助けたという伝説が残っている。山の中でのゲリラ戦では、犬飼など、山の民の協力が必須だった
- 山津見神社のある相馬郡の主・相馬氏は、奥州に落ち延びた将門の血族の子孫。源氏に協力して所領を安堵してもらったのだろう。ということは、相馬氏は兵士たちと一緒に奥州に入植した県犬養氏系の犬飼だったのではないか
- 一方、中央の宮廷で藤原氏との抗争に破れた橘氏(犬飼の一族)は地方に追いやられた。秋田方面には古くから橘氏が入植していたが、その関係で安倍氏の家臣になった。秋田犬も狼の血を受けているのではないか。甲斐の国に国司として赴任した橘氏も犬飼を連れて来たらしい。それが甲斐犬のルーツか。河口浅間神社を勧進したのは甲斐の国司・橘末茂。末寺の善応寺には狼塚がある
- このような経緯で、王朝時代の衰退とともに、犬飼たちと一緒に橘氏も、台頭して来た甲斐源氏の郎党になった。その後、鎌倉幕府の奥州支配とともに、甲斐源氏の任地である山形に入植した。山形県には犬の宮がある
- 南北朝の戦乱期には、南朝側の新田氏の家臣、畑時能が犬獅子と呼ばれる犬を使い、忍者のような芸当で城攻めをした。時能は犬使いの術を信州で習ったとされているが、信州といえば海犬養氏が入植した地。そして信州出身の武将真田幸村には真田忍群と呼ばれる忍者集団が付き従っていた
- 真田氏は信州修験道集団のバックアップを受けていたが、信州の修験といえば戸隠。そして戸隠忍法。戸隠修験の中心、戸隠神社の宮司は代々、犬飼氏
- 徳川家康が伊賀越えしたとき、逃亡を助けた甲賀の忍者・多羅尾氏の氏神は高宮神社。高宮神社の神使はオオカミ
- 家康に仕えた武将・安倍大蔵は静岡の金鉱掘りの棟梁だが、安倍氏の氏神、大井神社のお使いもオオカミ。穴掘りが専門だけに、トンネルを掘って敵の城に忍び込むのを得意としていた
- もともと金鉱を探り当てる山師には、金属臭を嗅ぎつける犬が必要だった。水銀掘りの丹生氏の氏神、狩場明神も犬飼い。公儀隠密として暗躍した甲州(山梨県)のマタギも橘氏が連れて来た犬飼の末裔
- 徳川幕府はマタギを隠密として使って外様大名の動静を探っていた。藩の境界を自由に行き来できる免許状は日光東照宮が出していた。宇都宮の二荒山神社は日光の里宮だが、鉄製の和犬型狛犬が奉納されている
- 他にも、姫路の市川流域の狼寺や犬寺縁の犬飼も隠密。伊賀忍者、甲賀忍者、雑賀衆、根来衆……みんな幕府関連
- 吉宗が将軍になったときに、紀州流忍者を連れて上京し、御庭番の制度を作った。かくして犬飼一族は、江戸時代には文字通り「幕府の犬」となっていった
- このように、犬飼一族は朝廷の猟犬を育てる係から始まり、各地に渡ってからは害獣駆除(猿神退治伝説を生む)、米蔵の番人、蚕の番人、宮殿の門番、軍用犬の飼育係、水門の警備、暴動の鎮圧(大蛇退治伝説を生む)、偵察隊、ゲリラ兵士、地侍、忍者、神社の宮司、山師、マタギ、公儀隠密、御庭番……と、世の中の裏方稼業の多くを担ってきたが、裏稼業的な役割ゆえに、歴史の表舞台ではあまり語られることなく、伝説などの形でしかその仕事ぶりが残っていない
(以上
「来福@参道」さんのサイトより、まとめ引用させていただきました)
……とまあ、実に読み応えのある内容だ。
このタヌキとウサギの問答は、こんな風に結ばれている。
田ノ貫
「それで、水争いの話に戻るが、農民の水争いは昭和も30年代まで続いておったのじゃよ」
宇佐美
「え?そんな最近まで続いていたのですか?」
田ノ貫
「そうなのじゃ。水争いがなくなったのは昭和40年代、ダム建設ラッシュの後なのじゃよ。甲府のマタギが隠密だったことが分かったのも、ダム建設で古い家を解体したら、屋根裏部屋から忍び道具がゴロゴロと…」
宇佐美
「え、そういう事情だったですか?でも、皮肉ですねえ。水争いがなくなるとともに、犬飼さんの末裔さんたちの村が水に沈んでゆくだなんて」
田ノ貫
「確かにのう、犬飼衆の集落は水源近くの谷の奥じゃからなあ。ダム建設で犬飼系の集落の多くはダム湖の底に沈んで、離散した村も多いのじゃ。御時世とはいえ、皮肉な巡り合わせじゃのう」
……と、引用がずいぶん長くなってしまったが、話を元に戻せば、
- 栃木に軽く100社以上ある高靇神社の祭神がタカオカミ
- タカオカミは水を司る神で、雨乞いの神
- かつて、関西の犬飼一族は関東・東北に渡っていった後に、地域で起きる水争いを調停・鎮圧する役割を担った
- 水源地を守り、水を巡る争いを鎮圧するというのは「山の神」に通じる
- 犬飼一族は常に狼犬を使ってこの役割を果たしていた
……と考えると、高靇神社にオオカミ像や和犬像が残っていることの説明になるかもしれない。
今までは単に、狼信仰=山の神信仰、山岳信仰……というイメージでしかなかったが、犬飼一族という、時代とともに権力者の下で犬と共に仕えていた人びとの歴史と結びつけることで、より複雑な背景が見えてきた気がする。
犬飼氏の関与によるオオカミ像が多いとすれば、オオカミなのか和犬なのかという区別はあまり意味をなさなくなる。
和犬像とされているものがある神社の多くは、狼の血を引く犬を育て、操る犬飼一族が関与している神社なのかもしれない。
また、狼信仰は製鉄民との関係も深いが、これも、古くはたたら鉄を造るために山を徘徊し、鉄鉱石の鉱脈を探り当て、採掘し、目を潰しながら製鉄をした山の民との関係……後には、鉄から作る鉄砲を操る者たち(マタギ衆など)との関係ということで見ていく必要があるのだろう。
鉄の鉱脈を見つけるのには犬の臭覚が必要だったし、山の中で暮らすには、外敵を察知して吠える優秀な番犬も必要だった。その犬に狼の血が混じることで、より強い犬が誕生した。そういうことから、狼を神聖な生き物とする狼信仰、山岳信仰も発展したのかもしれない。
もちろんこれらは推測にすぎないし、今となってはこの推論を証明することは極めて困難だろう。
しかし、オオカミ像をめぐるさまざまな考察が、こんなに一気に進んだのも、この高靇神社のオオカミ像のおかげだ。
(2018/05/03追記 狼信仰については、その後、
足尾の簀子橋山神社の狛犬(現・通洞鉱山神社にある狛犬とされている)と磐裂神社の狛犬が「入れ替わった」のではないかという推論を導き出したときにも思い出すことになった。修験道と妙見信仰、庚申信仰、山師たちとのつながり……が、近代史に隠れていた人間ドラマとも結びついていたというお話にまで発展……)