それにしても、なんでどこもかしこも「美しい景色を造る」という発想がないまま、無秩序、無計画、無頓着に造成されまくるのだろうか。
このへんなんか、きっちり雑木林エリアを定めて、広めに区画していけば、ものすごくいい感じの住環境ができると思うのだが、単位あたりいくら儲かるかという発想でガリガリやるものだから、剥げ散らかした無残な光景に変わり果てる。
哲学がないんだな。
自分がそこに住みたいと思えるような開発を心がければ、こうはならないはずだ。
金持っているやつから金を巻き上げるための手段としか考えていない。
結果、人間も、もともとここで暮らしていた生物も不幸になる。
手をつけた連中は倒産してちりぢり。後は知ったこっちゃない。
こういう行為も含めて「人の営み」だとすれば、ほんとに虚しい。
アベノミクスなんていうふざけた言葉をよく聞く昨今だが、要するにリーマンショック前のアメリカを追随しているだけではないのか。
少し前の日経ビジネスに、
「デフレからの脱却は無理なのです -水野和夫・埼玉大学大学院客員教授に聞く-」というインタビュー記事が載っていた。
//日米欧ともに成長ができなくなったからバブルに依存し、いずれも崩壊したのです。バブル崩壊の過程でデフレも起きました。私には成長戦略でバブルの後遺症から脱却しようというのは堂々巡りのように思えます。//
//あらゆるものが過剰になっているのです。本来ならば、望ましい段階に到達したはずです。国連の統計では、1人当たりのストックでは日本は米国を上回ります。さらに成長しようというのは、身の回りのストックをもっと増やそうということです。まだ資本ストックが足りない国から見ると、1000兆円もの借金を作って色々なモノをあふれさせた日本が成長しないと豊かになれないというのはどういうことか//
//もし日本が今でも貧しいとするならば、1つの解は近代システムが間違っているということです。ありとあらゆるものを増やしても皆が豊かになれないというのはおかしいですから。
2つ目の答えは、成長の次の概念をどう提示するかです。日本は明治維新で近代システムを取り入れて、わずか140年たらずで欧米が400年くらいかけて到達した水準に既に達してしまったということです。これまで「近代システム=成長」ということでやってきましたが、必ずしも近代システムは普遍的なものではありません。変えていかないといけないのです。
私は経済的にはゼロ成長で十分だと思います。//
//デフレからは脱却できないでしょう。そもそも成長できなくなったという前提でどうするかを考えなければいけないのです。//
……とまあ、↑これはちょっと抜き出してみただけだが、経済記事で「感動」したなんて、初めてのこと。
この人の話、じっくり、何度でも読み返してみたい。ものすごくまっとうであたりまえのことを言っているだけなのに、そういうものを「日経」で発信していることに「おっ?」と思わなければければいけない世の中になってしまった。
『マリアの父親』が新人賞を受賞し、本になったとき、担当編集者からはこう言われた。
「うちとしてもこの本を積極的に宣伝して売るということは難しいのよ。だって、この小説は、結局のところ経済のマイナス成長を肯定しているわけでしょう? そういう作品を、一営利企業である出版社が積極的に宣伝することはできないもの」
この20年、何も変わらなかった。むしろ、バブルの余韻があった頃のほうが、僕もそのおこぼれにあずかって、飢えることがない程度に金が得られた。
でも、世の中への絶望感は膨らむばかりで、自分の精神をまともに維持したいと、自然が残っている場所を探して生活拠点を移した。
そこでは、都市よりももっと厳しい現実が待っていて、最後は『マリアの父親』を書いていたときでさえ、自分が生きているうちには起きないでほしいと祈っていたことが起きてしまった。
ようやくこれで世の中は変わるのだろうかと思ったら、この国はまったく逆の方向に向かって加速している。
バブル崩壊で生じた荒れた造成地に残っていた競売物件のなれの果てを運よく見つけて、今そこに住んでいる自分。
生活防衛、生き甲斐死守の闘いはますます厳しいものになっていくだろうが、今はとりあえずなんとか生き延びている。