ここでお昼。
役所の中の会議室で弁当を広げた。
手作りの弁当を食べるのって、いつ以来だろう。この前は、ジョンと一緒に平伏沼までハイキングしたときだったと思う。朝出て、帰ってきたのは夕方だった。
30km以上歩いただろうか。
今、過去の日記を確かめてみたら、
2008年11月5日のことだった。あれからもう4年も経ってしまったのか……。
あの頃はまだ風力発電問題も知らなかったし、もちろん2年半後に原発人災に襲われることも想像できなかった。ジョンが老犬になったときはどうしようか、引き取ってうちで面倒をみようかとか、そんなことを考えていたのだが、まさか連れ去られて所沢で「ふくちゃん」として第二の人生(犬生)を送ることになるとは……。
ジョンはどうしているのかなあ。所沢で可愛がられているはずだ。多分、今までより幸せだと思うけれど。
午後は講義2時間。
これがまあ、想像していたのとはだいぶ違った。
講師は栃木県保険健康センターの人(だと思う)。
研究者肌の人で、話がどうも研究者の目というか、調査報告というか、学術的とまではいかないが、数字が中心になりがち。
エリアも奥日光限定で、僕が想像(期待?)していた内容とはかなり違っていた。
もう少し、我々の生活と水環境の関係性とか、環境社会学的な内容を想像していたのだが、なんというか、観察者的に淡々と現状分析、報告をしているという感じ。
中禅寺湖と湯ノ湖の水質汚染の違いとか、それはどういう原因で起きているのかとか、中禅寺湖や湯ノ湖は日本の他の代表的な湖に比べてどういう特徴があるのかとか、そういう話だった。
例えば、より高い場所にある湯ノ湖は、上流側にはほとんど人家や人工工作物がないので、人為的な負荷はほとんどない。それなのに中禅寺湖よりもCOD値が高いのは、中禅寺湖のほうがはるかに容積がでかいからだ……というようなこと……。
それはそうなんだろうなあ、と思うのだが……。
で、最後に質問をして(質問をしたのは僕だけだった)ようやく、彼が何を言いたかったのか、このレクチャーがどういう性格のものなのかが、この段階で初めて少しだけ見えてきた気がした。
1980年代に、中禅寺湖で「泡」が大量発生して、それを見た住民から「あれは見苦しい。なんとかならないのか」という苦情が寄せられた。
この泡の正体を突きとめるべくいろいろ調査したが、今ひとつはっきりしない。分かったことは、植物質由来のものであり、糖類の一種であるということ。この泡によって水質がさらに悪化しているということはなさそうだということ。
さらには、どうも湯ノ湖のCOD値が上がっていることに関係があるらしいということも見えてきた。
しかし、湯ノ湖の上流側で人工的な汚染が起きているわけでもない。それなのに湧水そのものの水質が富栄養になっているようだ。その原因のひとつは、外来種の水草であるコカナダモが増えていることではないのか……ということになって、ボランティアを募ってコカナダモの処分などを今もしている。
こういうことで水質が保たれ、今は中禅寺湖も湯ノ湖も、目標の指数(これは国が決めているそうだ)前後で推移しているので、深刻な汚染にはなっていない。
講師によれば、中禅寺湖の水質が一気に悪化したのは、観光客が急増したバブル期に一致しているとのことで、なんだかんだ言ったところで人為的な汚染源が増えればその影響は素直に出るのは間違いないらしい。
一時騒がれた「泡」に関しては、調査しても人為的水質汚濁が原因とはあまり考えられず、自然要因(コカナダモの増加とか温暖化とか?)であろう、と。
こうした内容は、他の参加者(コカナダモを処分する活動などをしているボランティア中心?)には常識というか、大前提としてあったのかもしれないが、それをまったく分からない僕たちがこの話を聴いても、ピンとこなかったのはまあ、当然かもしれない。
で、そうした認識上のギャップはあったとしても、全体にもっと「水問題」の本質を突いてほしいよね、という印象は持った。
つまり、簡単に「水質汚染」「汚れ」というけれど、その定義はなんなのか。
単に国が決めているCOD値やBOD値を満たしているかどうかという数字の話だけでいいのか?
例えば、水棲生物を中心とした生物層の豊かさというものを、COD値だけで計れるのか?
この2時間の話の中で、水棲生物の話がほとんど出てこなかった。COD値やリンやチッソの量だけで水の汚濁とか汚れと言われても、「奥日光の水辺と自然」という今日のタイトルとは、視点がずれているんじゃないかと思ってしまった。
数が減った生物はいないのか。コカナダモの話は出たが、では、そのコカナダモが発生したことで他の生物はどうなっているのか、という話がほとんどなかったように思う。
講義の最後のほうでは、日光市に観光客をもっと呼ぶためには云々という話も出た。
白根山の観光資源が群馬側に取られてしまっているのはやるせない、とか、足尾銅山の歴史についてとか、これもいまひとつポイントが絞れていなくて、何をどうしたいのか伝わってこなかった。
例えば、日光の魅力は東照宮だけじゃないよ。「水」をキーワードにして日光の自然環境をPRしていきましょう、という話であればすごくよく分かる。
日光はほんとうに水が豊かなところだ。でも、水を売る商売をしている企業が少なすぎるとか、そういう視点だけで語れる話なのだろうか。
そもそも日光市自身が「水」をキーワードにした情報発信をしっかりできていないように思うのだ。
今日の話で水源地での取り組みはある程度分かったが、では、麓の住民は日光の水環境をどう考えているのか。
無神経な圃場整備事業や河川改修で、失われた沢や湿地がどれだけあったか。
もっと下流側の住民、生活環境の構築との関係において考えていかなければダメでしょ、と言いたくなる。
そうした教育、啓蒙、あるいは合理性の重視という視点を抜きにして、いくら日光の自然はすばらしい、観光資源を守ろうというようなことを言っても、漠然としたお題目としてしか伝わらない。
日光の水を守るとはどういうことなのか。
あなたの家で使っている水はどこから来て、どこへ流れていくのですか。その水路を確かめたことはありますか……というようなところに出発点はある。
都市部ではこうした「地元学は水系を知ることから」という意識を広めようとしているグループがけっこう存在している。田舎ほど無頓着だ。
自分たちが暮らしている土地の特性を知り、美点を誇り、それを守るために考え、行動するということが、強い文化を育て、最終的には自然環境を健全に保つことにつながる。
……そういう話にいまひとつ結びついていないように思えるセミナーだったので、こちらはやや面食らったのだが、これはこれでとても有意義な体験だった。
上流側と下流側の意識のズレとか、連携のなさとか、役所の思考、システム、その他もろもろ、今まで感じることができなかったいろいろな「要素」の一端を垣間見ることができたと思う。
無理矢理なまとめ方に見えるかもしれないけれど、本当に「勉強になった」と思っているのである。
自分も人前で話す仕事をよく引き受けるため、こういう機会は本当に勉強になる。自分は講師をしているとき、聴衆からどう見られているのか、分かりやすい話をしているのだろうか、ひとりよがりになっていないか……いろいろと考えさせられる。
とにもかくにも、こうした機会を提供してくれる行政の人たちには感謝している。
……というわけで、終了は3時過ぎ。
日没まであとわずかだが、せっかくここまで上ってきたので、もうちょっと上まで足を伸ばしてみることにした。