10/10/08

 定次郎・コンバイン

一日曇り。高いところが好きなツチガエルが一匹いて、そいつが今日は手前の岩の上に登っていた。近くまで寄れるので、アップで何枚も撮っておいた。

正面からの顔はなかなか撮れないので、チャンス


土手池の定次郎もいつもどおりの場所にいる


ニホンアカガエルとヤマアカガエルの見分け方は難しい


顎のところに黒い斑点があるかないか、という見分け方もあるらしい


カエルの見分け方でよく取り上げられるのが、
  1. ニホンアマガエル、シュレーゲルアオガエル、モリアオガエル
  2. ヤマアカガエル、ニホンアカガエル、タゴガエル
  3. トノサマガエル、トウキョウダルマガエル
だ。
ここなどに解説があるが、いちばん難しいのが2)で、本当に分からない。
ヤマアカガエルの喉の下には黒い斑点がある、という見分け方は、本当なのか? そもそも、捕まえてひっくり返してみないと、喉の下なんてなかなか見られない。
今日はいいチャンスだったので、α300を地面に置いて、ライブビュー撮影で極力顎の下が写るように撮ってみた。
結果、定次郎には黒い斑点がほとんどない。となると、ニホンアカガエルということになるのだが、背中の側線は折れ曲がっていてヤマアカガエルっぽい。色からしても、ニホンアカガエルには見えない。ヤマアカガエルだろうなあ。結構分かりやすいほうだと思う。

……と、写真を撮っていたら、奥のS藤さんの長男・K男さんがトラクターに乗って下りてきた。
奥のS藤さんちは老夫婦で住んでいたが、昨年、旦那さん(うちの両親と同じ昭和3年生まれ)が亡くなってからは、奥さんが一人で住んでいる。助手さんは1日おきくらいのペースで、夕方、様子を見に行って、お茶のみ話をしてくる。
息子3人、娘1人、孫、曾孫もたくさんいる。息子さんたちはみんな関東圏(千葉や埼玉)に住んでいるので、ここまで来るのは結構大変なはずだが、かなり足繁く通ってくる。来ると必ず草刈りやらなにやら、畑仕事をしていく。K男さんも、これから旧田圃を耕しに行くのだろう。
「新しい池作ったんですよ」と見せた。


どどどどど……


ふう〜ん


立ち話をしていたら、定次郎が急に動き出した。どうやら虫を狙っているらしい。たまにはご飯を食べないと生きていけないもんねえ。

夕方、ジョンのお散歩。
最新式のコンバインで稲刈り進行中。3連休が雨の予報なので、ジョンの飼い主・けんちゃんは、今日は休みをとって稲刈りらしい。
このタイプは、正式には「自脱型コンバイン」と呼ばれるもので、刈り取り、脱穀、藁の処理などをいっぺんにこなしてしまう。combineというのは、動詞だと「結合する」「組み合わせる」「兼ね備える」というような意味だ。受験英語をやっていたときは、そっちの意味を先に覚えたものだ。
このコンバインは高いぞ。定価で800万円くらいするんじゃないかしら。
古いタイプの単独稲刈り機は、バインダーという。稲を刈り取ってばさばさと束ねて落としていくタイプ。
バインダーは直訳すれば「結束機」だけれど、農業機械のバインダーには必ず刈り取り機能もついている。これに対して「ハーベスター」というのは、自走式の脱穀機みたいなもので、コンバインやバインダーとは明確に区別されるらしい。
コンバインは、刈り取ると同時に脱穀して籾を本体内部タンク(グレンタンク)にため込む。外には藁だけが落とされる。
本体内に籾が溜まったら、筒を伸ばして籾の収納コンテナに吐き出す。
自脱型コンバインは日本独自の仕様で、穂先部分だけを脱穀装置に送り込むんだそうだ。もともとのコンバインはそこまで細かな芸当はせず、刈り取った茎から上の部分全部を脱穀する。水分の多い日本の米だと、茎全部を脱穀すると無駄が多い(籾が損傷したり、米粒が脱穀漏れしたり)んだとか。
ふうん。知らなかったねえ。ためになるねえ。

本体内タンクに溜まった籾を吐き出しているところ


仲間5人で金を出し合って買ったらしい


すごい勢いで出てくる


コンテナ内に吐き出された籾


飼い主けんちゃんの雄姿?を見守るジョン


籾を吐き出して、また刈り取りに復帰


この威力! 手刈りの時代には戻れないと思うのはあたりまえ

家に戻っていくと、K男さんが休耕田を耕していた。これから蕎麦でも撒くのかしら。ここはS藤さんちの田圃で、旦那(仲五)さんが一人で長いこと米作りをしていたのだが、稲作を断念して何年にもなる。

トラクターは地味だな


ジョンはもっと歩きたくて、不満そう




足下にあったキノコ。食えるのか? シメジ系のような感じもするが、毒キノコのクサウラベニタケにも似ている。
阿武隈では、カキシメジ、ツキヨタケ、クサウラベニタケは「中毒御三家」と呼ばれて、最も中毒事故が多いそうな。



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(ここから先、例によって疲れる文章をだらだらと載せたので、読まずに次に飛べるようにしておきます↑)




夜、地元のニュース番組の特集で、「エコカー減税の影響で中古車業界が困っている」というリポートをしていた。
正確には「エコカー減税」というよりも、ようやく終了する「補助金制度」のほうが影響が大きい。
登録から13年を超える車を廃車にして、一定の条件を満たした新車を購入した場合、25万円(乗用車の場合。軽自動車は12万5000円)を国が補助してくれるという制度。
手放した13年超の車は、中古車市場には出ていかない。「廃車」にすることが条件で25万円が補助されるのだから、その25万円を手にするためには、まだまだ走るクルマであっても、廃車処理するしかない。

これに合わせて、13年を超える車の自動車税は概ね10%増税されるという法律もできていて、自動車を13年以上乗り続けることを困難にさせるという、環境負荷増大政策が実施されているのだ。
結果、本来、まだまだ乗れる中古車が廃車に回され、中古車市場に出てこなくなり、中古車業界がタマ不足、特に古い年式のお買い得車がなくなって困っているというのだ。

エコカー減税も買い換え補助金も、「車を長く大切に乗ってはいけません。さっさと買い換えなさい」と圧力をかける政策。

うちには13年超の車が2台ある。越後の冬を乗り切るために買った1600ccの四駆(スズキ X90。3万7400km走行の中古車を34万円で購入。一冬だけで中越地震に襲われ、家がなくなり、越後では活躍の場がなかったが。阿武隈では水を得た魚のように元気に走っている)と、ほとんど趣味の範疇で買った1400ccのドイツ車(オペル ティグラ。2万キロ台走行の中古車を29万円で購入)。どちらも今年から自動車税が跳ね上がった。
1600ccの四駆は、最近はカエルの卵パトロールのとき以外はほとんど車庫に入ったままで動かさなくなった。しかし、冬はこれがないと生活ができないので手放せない。
ティグラは自動車税や保険の負担に耐えられず、手放そうと思ったが、国のふざけた政策に反発し、まだ所有している。いじめに負けて手放すのは、屋根裏に隠れてひっそり暮らしているアンネをゲシュタポの前に差しだして殺してしまうような気分になるのである。
ティグラは、村内を動くときの足として、夏場はよく乗っている。しかし、もうすぐ車検なので、試練だ。所有しているだけで大変な金がかかる。
贅沢なんだよと言われればその通りなのだが、中古車として購入し、ただ所有しているだけの車は、環境に負荷をかけているわけではない。むしろ、手放せば、確実に廃車になるから、廃車にするためのエネルギーが余計にかかる。ましてや、これを手放して補助金を得て新車を購入したりすれば、その新しい車の製造分の資源やエネルギーが余計にかかる。考えようによっては、あまり乗らない中古車を所有し続けているのは、自腹を切って環境負荷増大を食い止めていると言えるのではないか。

古くても走行距離がそれほどでもない中古車は、今までは中古車市場では「お買い得車」として一定の人気、需要を持っていたのだが、国の買い換え促進政策のおかげで、まだまだ走る程度のよい中古車がほとんど廃車にされ、目下、中古車市場ではタマ不足になっているという。
おかげで中古車価格全体が上がってしまい、安い車を買いたいという庶民の要望に応えられない。
まったく不愉快な話。
うちの2台はまだまだ走行キロ数もいっていないし、買ってからどんどん調子が上がり、今が絶好調。燃費は買った当時より何割かよくなった。
ティグラはガリバーに持っていったら「1万円」という査定額だった。しかし、廃車にして新車に買い換えれば、国が25万円くれて、自動車税も大きく減税処置されるのだ。
国が権力と金を使って、罪のない、いたいけな車を大量虐殺している、と言ってもいい。
中古の軽自動車を買うのが精一杯という貧乏人にとっても、理不尽ないじめ以外のなにものでもない。
こんな暴力が許されるのだろうか?
車は製造するときに大変な環境負荷をかける。エネルギーを使い、資源を使って車が製造される。その車を、長い間乗り続けさせにくくし、無理矢理鉄くずにして、次の車を製造させるために買い換えを迫る政策のどこが「環境政策」なのか。経済成長が最優先で、環境保護はどうでもいいという政策だ。だったら正直にそう言えばいい。「環境にとっては悪いことですが、経済マイナス成長は怖いので、資源があるうちは無理をしてでも使えという破れかぶれ政策です。ツケは我々が死んだ後の人たちに払ってもらいましょう」と。
そんなことは、みんな百も承知。不愉快だし、後ろめたいから、いちいち文句や異論は言わないだけ。エコだエコだと大合唱する世の中で、理不尽なことには目を向けず、ものごとを深く考えないようにして、なるべく余計なエネルギーを使わずに生きていくしかないこの時代。腹を立てたり文句を言うのはエネルギーがいることだから。

政治がひどいのは今に始まったことではないが、さらに不愉快なのは、ストップ温暖化だの地球環境を守れだのと訴える人たちの中に、あまりにも低次元なウソを平気で言う人たちがいることだ。
「私たちが必要としているのは電気ではない。明るさ、温もり、便利さなんです。電気を必要とするのは電気椅子に座る人だけです」
……例えば、こんなアジテーションをする活動家がいる。この人は、太陽光発電や風力発電などの「自然エネルギー」信仰、そして「電池信仰」がすさまじく、将来は太陽光と風力で電気を作り、その電気を性能が上がった電池に溜めて使えばエネルギー問題が解決するかのようなことを平気で口にする。
電池の高性能化は確かにすばらしい。サンヨーのエネループなどは、本当に「よくやった!」と絶賛したい発明。
しかし、電池は電気エネルギーを溜めておくための装置であって、電気を作りだす(発電)装置ではない。
電池を使うということは、どこか別のところで作りだした電気があって、それをそのまま送電線経由で使えればいちばん効率がいいのだけれど、そうはいかない場合に、効率低下、エネルギー損失を承知の上で、一旦溜めておいて使う、ということだ。
風力発電のように、発電システムそのものに電池を組み合わせなければ安定運用ができないとしたら、それだけでその発電システムは大きな弱点を持っているということになる。
発電装置以外に、電池を作るためのエネルギー資源、材料としての稀少資源が必要なわけだから、

電池を作りだすためのエネルギーと使った資源 + 電池に溜める電気を作りだす装置のために使ったエネルギーと資源 + そこに溜めることで失われる電気エネルギー

……この合計を考えなければいけない。
電池の部分だけ見て、便利だ、性能が上がった、大量生産すればコストダウンできる、だのと喜んではいられない。
最近、風力発電所とセットで設置され始めているNAS電池(−極にナトリウム、+極に硫黄を、電解質にβ-アルミナを使った電池。ナトリウム電池とも)は、常温では作動しない。300℃という高温に保つ必要があるので、常時ヒーターで暖めていなければならない。そのヒーターに使う熱源はやはり電気が一般的だから、電池を作るだけではなく、電池を使うためにも電気が必要という代物なのだ。「コストが高いのが欠点」などとさらっと解説されているが、コストが高いというのはそれだけエネルギー資源を使っているということだ。そういう無理なものに税金を注ぎ込んで一時的にごまかすことこそが、いちばんの環境負荷だ。

そもそも石油がなくなれば電池も作れない。現代文明は石油文明なのだから。
文明の根幹が崩壊するわけで、本当の意味での「脱石油文明」──正確には「ポスト石油文明」は、そこから発想しなければならない。
石油が涸渇した未来のエネルギー政策を、石油をふんだんに使っている現代社会の構図の中で語っていること自体が大間違いなのだ。
まだまだ使える道具を使い続けることを邪魔してゴミにさせたり、使いものにならない発電施設建設を強引に進めることには、どんなへりくつをこねたところで正義はない。
そんなものに大量の資源やエネルギーを注ぎ込むのは、腹一杯飽食した後に「甘いものは別腹だからOKよ」と言って、さらに余計なエネルギー(カロリー)を無理矢理取り込んで肥満していくのと同じだ。

冷静になって想像してみよう。
石油がなくなった世界での太陽光発電や風力発電はどうなるか……。
それこそ『風の谷のナウシカ』みたいな感じになるだろう。
石油がなくなった世界では、巨大な装置は作れないし維持できない。運べない。
発電システムを構築する技術や知識はあるけれど、資源やエネルギーが得られない。材料もない。
となれば、残ったわずかな資源と、使い古しの材料や道具を利用して、人力+αでやれる範囲のことをやるしかない。
数千キロワット級の巨大なウィンドタービンを、石油なしの世界で維持できるわけがない。

別の言い方をすれば、「電気だけを使って電気を作ることはできない」。
だから、石油がなくなった世界で、電気自動車が走り回ることはありえない。
電気はエネルギー資源ではなく、エネルギーを伝達する手段にすぎないのだから。
であれば、石油がある間は、なるべくケチケチと使って無駄をなくし、石油が涸渇してきたら、石油がない状況で幸福感を得られる文明を再構築していくしかない。

現代人は、生物としてのまともな本能、正常な感覚がなくなってしまっているのだ。

農業、林業、建設業に従事している人たちは、石油で動く機械がなくなったらどうなるか、ある程度想像できると思う。
でも、人々の前でもっともらしく「明るい未来像」を説く運動家や、机上の論理(しかも間違いだらけの論理)で政策を作り、実行していく官僚や政治家の中には、重機や農業機械に触ったこともない、農耕や建設作業をしたことがない人たちが少なからずいる。食料も住居も移動手段も、全部、他の誰かがどこかで作ったものや、すでにできあがっているシステムを利用することしかしていない。だから、頭だけで考えて、自分の都合のいい方向に論理を運んでしまうのだろうか。
「省エネ製品を使えばエネルギーが節約できて、電気の消費量も減らせるんです!」
と言う前に、「その省エネ製品なるものを製造するためのエネルギーと資源」がどれだけのもので、「今使っている製品を、使えなくなるまで使い続けたときに消費されるエネルギー+資源」との差を計算してみなければ意味がない。
なんの問題もなく動いている乗用車を無理矢理廃車にさせて、その分、新車を買わせる政策が、環境にいいわけがないことくらい、誰だって分かる。
分かっていても、つまり、余計に資源を使うことになっても、肥大化した生産や流通を縮小させないことのほうが大切だと思っている、あるいは経済のマイナス成長を恐怖している人が多いからこそ、エコエコ詐欺やりたい放題の社会が続いている。
経済成長を続けるためには、どんどんものを造って売っていかなければならない。だから、お金持ちたちは、「古いものを大切に長く使ってはいけません。さっさと最新型に買い換えなさい。買い換えないなら税金を高くしますよ。買い換えればこれだけ政府が援助しますよ」と、権力と金を使って恫喝している。

弱者は従うしかない。おかしいなと思っても、「今その車を廃車にして新車に買い換えれば25万円あげますよ。税金も安くしますよ。今の車を持ち続ければ、どんどん税金を高くしていきますよ。ガソリンを節約して、ちびちび乗ったとしても、持っているだけで高額な自動車税を取り立てますよ」と言われたら、転ぶしかないではないか。

「自然エネルギー信仰」(「振興」というよりは宗教に近いので「信仰」。あるいは経済「戦争」の一環だから「侵攻」でもいい?)が、経済無限成長という神話・宗教を守るために利用されている。
一見、金権政治や格差社会への対抗勢力のように見せかけて、実際には無限経済成長神話を支える強力な助っ人として機能している「環境保護運動家」が少なくない。
自覚のないまま暴走している人もいれば、分かった上で、巧妙に詐欺を仕掛けている人もいるだろう。
年金政策が破綻し、将来の不安を抱えたまま、低賃金で働かされている若者たちが、こうしたアジテーションにいちばんのせられているのも怖い。
石油は本当にそのうちなくなる。すぐではないだろうが、このまま使い続ければ、いつかはなくなる。そうなったときに、巨大なウィンドタービンや膨大な数の太陽光発電パネルが生産され、維持できるのか、想像してみてほしい。

一方で、エコエコ詐欺政策の犠牲になる人たちは、孤立させられ、追い詰められる一方だ。
権力者だけでなく、本来、味方になってくれるはずのメディア、さらには、「善良な人たち」「正義を捨てない人たち」にまで、被害者ではなく「苦情者」として排除の対象と見なされる。

うんざり。




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