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 鮫川村の寅吉飛翔獅子(1)

熊野神社
今年1月半ば、吉田さんからメールで、知人の藁谷さん(浅川町在住の写真家で狛犬ファン)が訪ねてきて、鮫川の赤坂西野熊野神社に小松寅吉の狛犬を発見したと報告された、ということを教えてもらっていた。
1月で道路が凍結していたりして鮫川まで行くのはしんどかったので、暖かくなったら行ってみようと思いつつ、暖かくなりすぎて、いろいろあったりもして、ずっとそのままになっていたのだが、風邪も治りかけてきたし、思いきって確認しに行くことにした。

あぶくま高原道路を通り、古殿町までまっすぐに下りるつもりだったが、ナビは石川町経由の道を選択。地図で見るとあまり距離は変わらなそうなので、素直に石川町経由で向かった。
熊野神社は非常に分かりづらいところにある。別に藪こぎして行くというような場所ではないのだが、道がメインの道路から集落に向かう道の途中から分岐していて、地元の人に訊かないと分からなかった。
こんな神社であります↑ いたいた。飛んでる飛んでる。

吽像は川田神社の第1号飛翔獅子を思わせる


元気な子獅子2頭付き


こちら阿像。後から誰かが描き直した目玉がずれているのが残念


明治31年11月建立。川田神社(明治25年)と鹿嶋神社(明治36年)の間


銘は「福貴作 石工 小松寅吉」となっている。
この銘がひとつの謎を呼ぶ。というのは、川田神社の最初の飛翔獅子には、大きな大きな文字で「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」と刻まれている。布孝を名乗り、これからは石工小松家の大将は俺だ、と高らかに宣言している。寅吉が自分の名前を刻んだデビュー作とも言える記念碑的作品だ。
このとき寅吉は48歳。小松家の養子となったのが慶応2(1866)年、寅吉21歳のときだから、小松家の養子となってから初めて「小松布孝」を名乗り、作品に銘を刻むまでに27年もかかっている。
戸籍上の養父にあたる小松彦蔵(親方・利平の子)は天保8(1837)年8月3日生まれで明治33(1899)年6月25日に61歳で亡くなっている。寅吉が「小松布孝こと俺がこの狛犬を造ったんだぞ」と宣言した明治25年にはまだ存命だったので、養父が亡くなったのを機に寅吉が布孝を名乗ったということではない。
ただ、実質の親代わりであった親方・利平は、文化元(1804)年11月生まれで明治21(1888)年8月1日(旧暦?)に亡くなっているので、寅吉が布孝銘を初めて刻んだ明治25年は、親方の没後である。
布孝という名前を継がせることを決めたのは利平だったのかどうかははっきりしないが、寅吉を石工としての後継者にすることは利平の遺志だったであろうから、川田神社の飛翔獅子像は、寅吉が満を持してお披露目した自信作だった。飛翔獅子という、寅吉が発明した新しい狛犬の形式を世に問う問題作でもあった。
その飛翔獅子の集大成傑作とも言えるのが鹿嶋神社の狛犬(明治36=1903年9月)で、ここには「福貴作 石工 小松布孝」と、やはり「布孝」銘を刻んでいる。
川田神社の狛犬(明治25年11月)から鹿嶋神社の狛犬(明治36年9月)までの間は、寅吉は「布孝」と「寅吉」を使い分けて銘を彫っている。
また、注目すべきは、明治35年、寅吉が泊まり込みで雲照寺の准提観音像を彫っていたとき、まだ21歳だった弟子の和平が、おそらく寅吉の留守中に発注されたと思われる小さな石の社に自分の名前を初めて刻んでいるということだ。この明治35年の石の社の後、和平が作品に自分の名前を刻むのは大正12(1923)年9月、42歳のときに彫った西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の灯籠まで、実に20年以上見つかっていないのだ。

○明治25(1892)年11月15日、寅吉 川原田 天満宮の狛犬 「浅川町福貴作 石工小松布孝作之」
○明治26(1893)年9月、寅吉 白河借宿新地山参道口の狛犬 「福貴作 石工寅吉作」
○明治27年9月13日 丑虎の石祠 「福貴作 寅吉」
○明治28年6月15日 月読神社(八雲神社)の狛犬 銘なし
○明治30年以降、借宿新地山参道口白河楽翁歌碑の石柵 銘なし
○明治31年11月、熊野神社(鮫川村赤坂西野)の狛犬 「福貴作 石工 小松寅吉」
○明治32(1904)年10月10日 白河市九番町金刀比羅神社 狛犬 「福貴作 石工 小松寅吉」
○明治33(1905)年7月26日、寅吉 母畑温泉元湯元湯神社の社殿 「石川郡浅川村福貴作 小松布孝」
○明治35(1902)年9月、雲照寺准提観音 「彫刻人 小松布孝」
■明治35(1902)年12月(和平21歳)、沢田村村社八幡神社裏の末社 石の社 和平の銘で最古の「石工 小林和平」
○明治36(1903)年6月、小松布孝・布行 大田原市西郷神社石の社殿 「小松布孝 布行 敬作」
○明治36(1903)年9月、寅吉 鹿嶋神社の狛犬。「福貴作 石工 小松布孝」


単純に考えれば、大作には布孝の銘を刻み、それ以外には寅吉と刻んでいたようにも見える。
しかし、新地山の石柵は大作であるし、今回確認した鮫川村の狛犬も、川田神社や鹿嶋神社の狛犬に比べるとやや小振りとはいえ、彫りのていねいさや全体の出来を考えると、布孝を刻んでも十分な逸品と言える。
それでも敢えて、あっさりと「石工 小松寅吉」と刻んでいるのはなぜなのか。
思うに、これは弟子たちの手の入り方による使い分けもあったのではないか。つまり、寅吉自身が重要な仕上げをほとんどやった作品には「布孝」を、それ以外、和平ら、弟子の手がかなり加わっているものには「布孝」を使わず「寅吉」を、ほとんど弟子たちが仕上げたものには銘を入れなかった……。そう考えるとある程度納得がいく。
さらには、この時期は、新地山入り口の石柵を作った時期に重なる。
石碑を東京の名門石屋・井亀泉(せいきせん)に発注され、自分にはその周りの柵だけを発注されたことに反発して、中の石碑が見えないほどの豪勢な石柵を作ってしまったのだろうという推理を最初に展開したのは狛犬研究家の山田敏春さんだが、僕もその通りだろうと思っている。
井亀泉への対抗意識が屈折した形となって、一旦は自分の中ではじけた「俺が小松布孝だぁ!」という宣言を封じ込め、ど~せ俺は田舎石工の寅吉だよ、とひねてしまった……と想像するのは、おそらく考えすぎで外しているだろう。しかし、寅吉が、生涯にわたって「銘」へ異常なこだわりをみせていたことだけは確かだ。

銘を巡っては、弟子の和平と兄弟子の亀之助布行との間にも確執があったことが想像できる。
和平は親方・寅吉が留守の間に受注した石の社をひとりで彫り上げ、おそらくは親方に無断で、軽い気持ちで「石工 小林和平」という銘を入れてしまった。しかし、そのとき和平はまだ21歳で、まだ修業中の身。独立していない弟子が勝手に銘を入れたことで、寅吉は激怒したに違いない。しかし、一旦納品した品物に刻まれた銘を依頼主の意向を無視して削り取ることもできず、小さな石の社に彫り込まれた和平の銘はずっと残ることになる。
和平はその後、年上の女性・ナカとの間に子供を作るが、独立していないために結婚も許されなかった。その生まれた長男も1年後には死なせてしまう。自分が彫った作品に銘を入れることも許されない半人前として、結婚もできず、生まれた長男も死なせてしまった自分がふがいなく、また、親方への恨みつらみも溜まったに違いない。
そんな自分よりも腕が悪い(と和平は周囲にも言っていた)兄弟子の亀之助は、早々と「布行」という名をもらい、親方・寅吉と並んで銘を刻まれるようになっていった。


○明治36(1903)年6月、小松布孝・布行 大田原市西郷神社石の社殿。「小松布孝 布行 敬作」。和平はこのとき21歳。
○明治36(1903)年9月、寅吉 鹿嶋神社の狛犬。「福貴作 石工 小松布孝」
明治38(1905)年?、長男重利誕生。和平24歳
○明治39(1906)年8月、須釜神社の燈籠 福貴作 石工 寅吉
○明治40年3月 坂本観音の馬 「福貴作 布孝」 同時に造った布行のは喪失し、現在のは別人が彫った復刻版
明治40(1907)年7月19日、長男重利死去(行年3歳)。和平26歳。 ○明治40(1907)年8月20日 鈴木寛治の墓 「彫刻師 小松布孝 同 小松布行」
明治41(1908)年、東白川郡社川村大字一色小林多三郎の二女・ナカを妻として迎える。和平26歳
△明治41(1908)年旧8月、西白河郡矢吹町中畑字根宿 八幡神社の先代狛犬(石工不明)建立。(この先代は明らかに寅吉工房のものと思われるが、作者銘がない。極めて高度な技術に裏打ちされた端正な造り)
○明治41(1908)年10月15日 八雲神社の燈籠 「福貴作小松布孝六十五年調刻」 片方は壊れて別人が復刻
明治42(1909)年、和平独立。和平27歳。このとき寅吉は65歳前後 明治42(1909)年、次男正誕生後すぐに死去。和平27歳
○明治42年4月 墓 「福貴作 石工 小松布孝 布行」
……

……こう見ていくと、和平が独立していないがために結婚を許されず、生まれてきた息子二人を次々に失う時期と、兄弟子の亀之助(寅吉の長男)が「布行」という小松家代々継いできた「布」の字を入れた名前をもらって、親方と一緒に銘を刻み始める時期は重なっている。
和平は、自分が工房内でいくら腕をふるってよい作品を作っても、できあがった作品には「布孝 布行」父子の銘が刻まれるのをどんな思いで見ていただろうか。
寅吉が「布孝」の銘を刻むことに相当なこだわりを持っていた以上に、和平も銘については大変な思いとこだわりを重ねていったことだろう。


話が銘をめぐってだいぶ脱線したが、この熊野神社の飛翔獅子像台座には、面白い記述がある↑
「この唐獅子建設の剰余金をもって本社拝殿内に真鍮製の角燈籠を献供したのでここに附記しておく」と書いてある。つまり、小松寅吉の工房である「福貴石」は、発注者が用意した金額を全部受け取らなかったらしい。
「これだけでいいよ」と寅吉が言ったので、余った金で真鍮製の燈籠を買ったというのだ。
これも寅吉の性格を物語るエピソードのひとつとなりそうだ。
金じゃねえんだ、心意気だ、という江戸っ子の気っ風にも似た性格を思わせるが、もしかすると、この飛翔獅子像に自分があまり手を入れられなかったことから、最初に言った予算よりオマケしたのかもしれない。
もしそうであれば、仕上げに和平の手がかなり入ったのではないかと、さらに想像が膨らむのだ。
というのも、この獅子は、後の鹿嶋神社の飛翔獅子よりも線が柔和で、阿像の姿は、和平が最後に彫り上げた玉川村川辺八幡神社の飛翔獅子(阿像のみ和平が後で彫ったもの)にも似ているからだ。
熊野神社の阿像
熊野神社の阿
川辺八幡神社の阿像
川辺八幡神社の阿

そう考えていくと、明治41(1908)年旧8月建立の八幡神社(西白河郡矢吹町中畑字根宿)の狛犬になぜ銘がないのかという謎にも行き着く。
根宿の八幡神社の阿像
↑これが、明治41(1908)年旧8月建立の八幡神社(西白河郡矢吹町中畑字根宿)の狛犬(阿像)だ。大変な技術で端正に仕上げられている。明らかに寅吉の工房・石福貴が手がけたものだが、銘がないだけでなく、鹿嶋神社の飛翔獅子や、後年に和平が彫った一連の獅子像とも味わいが違う。
この狛犬と対になっている吽像が後に台座から落ちて破損したため、和平が代わりの吽像を受注した。和平は高齢だったため、弟子の登(和平の養子の子)に指導しながら彫らせたが、和平の工房が受注したということは、和平とこの狛犬との関係性が当然うかがわれる。
明治41年というと、和平がようやくナカとの結婚を許された年。寅吉は息子の布行との連名で作品を次々に制作しており、白河市の八雲神社には「福貴作小松布孝六十五年調刻」と刻んだ巨大な燈籠を納めている。
寅吉工房が注文を受けた狛犬ながら、寅吉は他の作品にかかりきりで、また、すでに自分が老境に入ったことを自覚していた。
しかし、跡継ぎに指名した息子の布行は、まだ一人で大作を彫り上げるほどの技量を持ち合わせておらず、工房内で腕をふるっていたのはまだ20代の和平だった。
この飛翔獅子も、和平がほとんど彫ったために、寅吉としては「寅吉」とも刻むことを潔しとせず、一方の和平も、独立していない自分の名前を刻まなかったのではないだろうか。

今回、この熊野神社の飛翔獅子を見て、また、銘が「布孝」ではなく「寅吉」となっていることを確認して、今までもやもやしていた謎が、少しずつ解けていく気がした。
やはり、根宿八幡神社の飛翔獅子は、若き日の和平がほとんど手がけた作品なのだろう。
その吽像が落ちて壊れ、吽像の新規制作を依頼された和平は、孫の登につきっきりで教えながら彫らせ、若き日の自分の作品の隣に置くことで、安らかな気持ちでこの世を去っていった……そんな風に想像できるのである。


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