2022/10/14
11年前の日記を読み返した
2011年の画像フォルダの下の「思い出の物件」というサブフォルダがあり、11年前の秋に移転先を捜して見に行った物件の写真がいろいろ入っている。
例えばこんなの↓

↑↓これは原発爆発前、2010年秋に見に行った大玉村の物件。
実は川内村にはもう住めなくなるかもしれないというのは、原発爆発の前、裏山に巨大なウィンドファームが建つという計画が持ち上がったときに覚悟を決めていた。
その決断は助手さんのほうが早くて「そんなものが建つと決まったら、建ってしまう前にここは離れましょう。そんなものを見ながら過ごすなんてありえない!」とキッパリ。
なので、物件探しは2010年から始めていた。
2011年3月に原発が爆発し、4月末に全村避難中の村に戻ったときは、むしろ逆に「こうなったら川内村に残ってやる!」という気持ちだったのだが、村の中からその後の予想外の推移を見ていて、2011年秋には、改めて村を出る気持ちになったのだった。
学者さんの別荘だったようで、入口には天体望遠鏡を収めたミニドームがあった。
雑木林の中に建つ3階建ての細長いログハウス風の建物で、窓から見下ろすときれいな小川も流れているという面白い物件だったのだが、そのときはペンディングにした。
その後、2011年秋に再検討したときにはすでに売れていた。
案内してくれた不動産屋さんとは、その後もたまにやりとりがあって、川内村の家を売るときにお世話になった。


これは秩父の物件。内装が凝りに凝っていて、すべて無垢板張り。これが800万円。買いたいと電話したら「昨日成約しました」と言われた


↑コリーナ矢板というJR東日本が開発した大型リゾート分譲地内にあった大豪邸。1200万円。
電動シャッター3枚付きのガレージの上は広いバルコニー。二階建てで、1階にも2階にも25畳以上の広い部屋+18畳くらいの部屋があった。契約するつもりでハンコと手付金を持って内見に行ったが、風呂場にわずかな水滴があるのを不動産屋さんが見つけて、「雨漏りかもしれないので、これはちゃんと調べたほうがいいです」となって、ペンディングに。すごく良心的な不動産屋さんだった。

↑これは栃木県内だったと思うけど、どこだっけかなあ。喜連川のJR東日本が昔に造成した巨大なリゾート分譲地の物件を見に行ったついでに見たと思うので、そっち方面。隣がゴルフ場で周りは畑や田圃という田舎。建物は比較的新しくて立派だったし、土地も広敷地がどこまでなのかよく分からないような物件だった。元々は農家だったのかも。庭先に古い納屋のような牛小屋のようなものもあった。
玄関ドアも新しいし、建物はサイディングだから、古い農家を壊して建てた家かもしれない。
こうして見ると悪くないんだけどね。冷たい雨が降っていたこともあって、なんだかとても寂しい気分になってしまったのだった。鉄道や高速道のICからも遠かったし、値段は忘れたけど、ちょっとイメージ違うかなということでやめたのだった。

↑JR東日本がバブル期?に作ったフィオーレ喜連川というリゾート分譲地。コリーナ矢板というのが先にあって、これが大規模リゾート開発第二弾だったらしい。全戸に温泉が引けるというのがウリ。
でも、売り出されている物件はどれも斜面の上とか川の脇とかで敷地が平坦ではないものばかりだった。建物はお金をかけてる凝ったものが多く、そういう家に住んだことがない我々の目にはかなり魅力的にも映ったのだが、いやいやいや、これはやっぱり生活するには不便だし、歳取ったら危険じゃないか、ということでやめた。

↑フィオーレ喜連川からそれほど遠くない場所にある物件。元は豪農というか庄屋さんの家だったのかというくらい立派な農家風。庭も広くて凝っているし、魅力的ではあったけれど、ここに引っ越して来たらご近所さんたちとの関係はどうなるんだろう、みたいな不安があった。
広すぎて手に余る感じもあったし、やめましょう……ということに。

↑これは大月の物件。建物は新しいし、屋根も瓦屋根。高台で眼下を一望できるような開放感ある土地だった↓。
でも、値段が確か1000万を少し超えていて、ちょっときついな、ということでやめたのだった。


↑↓これも大月の物件。不動産屋の広告には「男の隠れ家!」とあった。
航空会社のパイロットの人が別荘として何軒も建てたうちの一軒だという。何棟も並んでいて、和風の書斎棟や広い作業場など、確かに「男の隠れ家」というか、女性の発想ではない作り。面白い物件ではあったけど、なにせ家の前の道が狭くて、すれ違いもできない。宅配便のトラックが入ってくるのも大変そうだなということでやめた。


↑これも変な物件だった。秩父方面だったと思うが、2軒まとめて800万円とか、そんな感じの売り方をしていた。どちらもちゃんとした家なのだけれど、2軒はいらないのよね。
二世帯住宅として建てたのかもしれない。場所はすご~く辺鄙なところで、東京に出て行くのも大変そうだった。
……他にもいっぱいあって、ついつい懐かしく見てしまうのだが、そのフォルダの中にこんな画像が入っていた↓。

引っ越し先を捜すにあたって、各地の放射能汚染状況を参考にしていた。これを見て「日光市はないな~」と思ったのだった。川内村とあまり変わらないから。栃木県なら宇都宮より南のエリアを捜そうと思った。
……11年前って、こんな精神状態だったんだよね。
しかし、福島県から山梨県まで見て回った末にたどり着いたのが日光市だった。
今の家を見に来たときも当然線量計持参。近所の地面の上に置いて計ったら0.22μSv/hくらいだった。川内村の役場周辺のほうが低いくらいだけど、川内村の自宅よりはずっと低い。
価格の安さも含めた物件の魅力に負けて、この程度の汚染ならいいか……と購入を決めたのだった。
今までの人生で、どういうわけか不動産に関しては常に運がよかった。中越地震や原発爆発も経験したけれど、そうした経験も含めて、指導霊のようなものが導いてくれたんじゃないかと思うほどだ。
引っ越しする前後の日記もついつい読み直してしまった↓(画像をクリックすると当時の日記にジャンプ)
2011年11月9日の日記
2011年12月13日、引っ越しして翌月の日記
2012年6月3日、引っ越しして7か月後の日記
今の世の中の異常さも、10年後に「あのときは……だったなあ」と、穏やかに振り返ることができたらいいんだけど、それは甘いだろうなあ。
まずはこの冬をなんとか乗りきらないとね。
ヨーロッパの国々は相当厳しそうだ。超過死亡が相当なことになるだろう。
来年の春くらいにどんなことになっているのか……。