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のぼみ~日記 2022

2022/02/25

たぬが死んで四半世紀

今日はなんか気分が乗らないので、軽くご町内を一周……と思って歩き出したら目の前の空き地に子ダヌキがいて、目が合ったまま数秒見つめ合ってしまった。
写真に収めようと腰にぶら下げたカメラを手にしたところでスッといなくなった。消えた方向に歩いて行くと、空き地の隣の家(ライチェルがいた家)の庭から入れ替わりにネコのトラちゃんが出てきた。
子ダヌキはトラちゃんの小屋のほうに行ったのだが、どうやらトラちゃんの餌をよく食べに来ているらしい。
トラちゃんは最近拾われたネコだが、人なつこいだけでなく、他の生き物とも仲がいいらしくて、少し離れた家の犬ココアのところにもよく遊びに行って寄り添っているらしい。

で、改めてたぬのことを思い出した。

たぬが死んだのは1997年1月17日未明の0.36am
あれから四半世紀が経過したんだなあ。
↑1993年くらいかなあ。百合丘の自宅庭にて

当時のことを書いた文章がどこかに残っていないかと捜したら、⇒ここにあった。
小説を本にしてもらえたのもタヌが来てからだし、エントロピーのことを知り、世界観が変わったのも、ギターを習い始めたのもタヌが来てから。タヌと出逢う前は、KAMUNAもタヌパックレーベルもなかった。タヌがやって来る前の僕の人生は、長い序章のようなもの
……確かにそうだなあ。
四半世紀経った今も、同じことを思う。
たぬの死後25年ということは、タヌパックの歴史は30年以上になるわけだ。
いつまで続くのかTANUPACK。
自分の死後にも続いてほしいと思うのは煩悩なのだろうな。
最近では、今の世の中がもう長くは続かないのではないかという気がしていて、自分が死んだ後の世界(人間社会)のことまで考えること自体、意味のないことなのではないかというある種の諦観に包まれている。

「黄金バット」から46年

そのタヌパックのYouTubeチャンネルに置いてある『午後三時過ぎの夢』に、珍しく「カッコいいです」というコメントがついていた。

これは東由多加が主催していたミュージカル劇団・東京キッドブラザースの演目「黄金バット」のために書いた何曲かのうちの1曲。作詞は 葉月多夢(小椋佳)。
葉月多夢名義と東由多加が作詞となっている詞をいくつか渡されて、何人かが作曲を競作した。
1週間くらいの間に渡された詞のすべて(6、7曲くらいあっただろうか)にメロディをつけて、半日かけて自宅でデモテープを録音した。
デモテープには当時のバンド「アンガジェ」のメンバーを召集。キーボードは「ギャラは出ないの? なんかかったるいな。デモテープなんだろ? 自分で弾けば?」と言って来なかったけれど、ベースのてっちゃん、ギターの山下くん、ドラムの松井くんは快く応じてくれた。
当時の私の部屋は実家の二階で、ドラムセット(貰い物の超安物)は大工さんに作ってもらった二段ベッドの上に設置してあり、バスドラを踏むたびにぐらぐら揺れるような代物。
エレピは千葉の丸井に展示されていた処分品を月賦で買ったコロムビアエレピアン1号機(ベニヤでできた試作品のようなやつ)で、カリンバみたいな鉄片をハンマーで叩いて音を出すという方式の完全アナログ楽器。
ミキサーはTEISCOの8チャンネル(1チャンネル壊れていて7チャンネルになってた)。
録音機はSONYの4トラックオープンリールMTRとAKAIの2トラ38を、4トラックで足りない場合はピンポンしてオーバーダブしていた。

そんな環境で一発録りしたデモテープがこれ。
ドラムの松井くんが「2拍子っぽくいこうかな」と提案して叩き出したリズムに合わせててっちゃんがかっこいいイントロフレーズをベースで刻み始め、最後は誰が合図するでもなく4ビートに移っていくという、今思えば奇跡のようなセッションだった。
私は必死でエレピをブロックコードで叩いているだけ。

このとき提出したデモテープのうち、採用されたのはこの『午後三時過ぎの夢』と、私が一人でギターを弾き語りしたバラード曲『雨が降る』の2曲だけだった。
採用されなかった曲のうち『いつの間にか少女は』は、山下くんが
「これほんとによしみつさんが書いたんですか? 信じられない。名曲すぎる」
と絶賛したほどのいいメロディだったのだが、理解されなかったようだ。

これは後に『REM』と改題して、KAMUNAのアルバムに収録した ⇒こちら

KAMUNAのアルバムに入れた吉原センセのソロがすんばらしいので聴いてみてね↓


東由多加が書いた『ビッコの木馬』という詞につけたメロディも好きだった。これはまったく劇中には登場しなかった。これ↓

20歳の頃

このとき書いた曲のうち何曲かは1976年7月8日、9日の2日にわたって上智大学1号館講堂(通称「屋根裏部屋」)で行われた「アンガジェ解散コンサート」でも演奏した。
初日には「黄金バット」の上演でバンドに参加し、サックスを担当した白庄司(しろしょうじ)孝さんが、劇団員で出演もした役者の峰のぼるさんを連れてやってきてくれた。
二人には無理を言って舞台に上がってもらい、峰さんの長台詞の後、白庄司さんのサックスも加わったセッションで『午後三時過ぎの夢』もやった。
そのときの録音があったのだが、今はどこかにいってしまった。翌日のテイクの一部だけが残っていた↓

山下くん(今は山下歯科医院の院長)のジャカジャジャッジャッジャジャージャー っていうギターリフが、デモテープを録ったときとは変わって(変えて)いて、こっちのほうがスピード感があって断然カッコいい。
このコンサートが終わった後、山下院長が「やっぱりアドリブっていっても、ちゃんと事前にフレーズを考えて用意していないといい演奏にはならないですよ」って言っていたのを覚えている。
私はそれに対して「あらかじめ考えていたらアドリブじゃないじゃん」みたいに答えたんだっけかな。

そうしたら、山下院長がYouTubeの動画をフェイスブックでシェアしたのがきっかけで、このときの白庄司さんが
「な、な、なんと𯘵私、ニッショウホールの黄金バットpart2、音楽で出演者で在りました𯘅ライブ盤も出てました𯘅驚きです‼」
とコメントしてきた。
二人は20年来のセッション友達で、「荻窪ルースターのブルースセッションで、いつもお世話になっています(^^)」(山下)というのだが、二人とも上智大学1号館講堂で一緒に演奏したことをまったく覚えていなかったという。
1976年7月8日からは足かけ46年。ほとんど半世紀前のことなので、まあ無理もないのかな。

私はあのときのことはしっかり覚えている。
白庄司さんは黄金バットバンド(劇場上演のために組まれた即席バンド)の中ではいちばんうまくて、力強いサウンドを安定して響かせる実質上のバンマスという感じだった。
当時の私は、夜は荒川区で2件の家庭教師をはしごして、終電ギリギリで川崎市の家に帰るという日々。いつも腹が減り、寝不足だった。
「黄金バット」では、ダンスシーンのバックとしてオリジナルのインスト曲を追加で書いてほしいと言われ、そのダンスシーンを見るために稽古場に向かったのだが、そのとき迎えに来た劇団員の一人がマネジャーから「センセイ(私のこと)は寝不足で疲れているそうだからタクシーで」と言われたとかで、大学がある四ッ谷からタクシーを拾ってくれたのだが、途中で「すみません。持ち金が足りなくて」と降ろされて、そこから電車に乗り継いで稽古場まで行ったのを覚えている。
稽古場では役者たちが集まって、トレーナー姿で結構ハードな準備体操(腕立て伏せとか腹筋とか)を始めた。
柴田恭兵さんから「センセイも一緒にどうですか?」と声をかけられたけれど、「いや、いいです」と、ただ傍らで見ていた。
柴田さんはソロで『雨が降る』を歌うので、一対一で歌唱指導もした。
いちばん高いところが出ないので1音低くしていいかと言われて、渋々OKしたのを覚えている。

劇団がとにかく貧乏だった。
バンドが集まって音合わせをするところにも呼び出され、その後、みんなで近くのファミレスに行ったのだが、夜遅くなってたから晩飯がふるまわれるのかと思ったら、みんな飲み物だけ。
私だけ「ハンバーグ定食」とか頼んで食ってたのだが、そのときも白庄司さんに「これは劇団持ちですよ。当然ですよ。大丈夫ですよ」と言われ、そのまま払わずに先に帰ってしまったのだが、他のみんなは飲み物だけで、自分だけハンバーグ定食を食ってしまったことを50年近く経った今でも後悔している。
あれは失敗したなあと、思い出すたびに苦しくなる。

作曲料はゼロ円ノーギャラ。もちろんデモテープを手伝ってくれたメンバーも全員が手弁当。重い楽器を持って、武蔵小杉駅からバスで30分近くかかる鐸木家まで来てくれて、何曲もつきあってくれたのに、ね。
「よしみつが作曲家としてチャンスを得られるなら」という思いから助けてくれたのだと思うのだが、当時の私はとにかく自己中心で、他人に厳しく自分に甘く、というトンデモバカヤロウだったのよね。本当に申し訳ない>メンバーたち
しかも、あのときの自分は音楽的にもいちばん「分かっていない」未熟者だった。
今あのときのデモテープや生演奏の録音を聴くと、他のメンバーがどれだけセンスのある演奏をしていたかが分かる。あのときの自分はそれが十分に理解できていなかった。
ちょっとしたミストーンやリズムの狂いばかり気になっていて、フレーズやリズムグルーブのセンスのよさ、複雑なコードトーンが織りなすかっこよさがよく分かっていなかった。ほんとにバカみたいだ。

今の自分はあの頃の自分が嫌いだ。友達にはしたくない。
20歳の頃の自分が、今と同じ「自分」の脳を持っていた生き物であることが我慢ならない。
でも、今の自分は、たまにキラッと光るメロディを書いていたあの頃の自分を、ちょっと羨んでいるかもしれない。
人生って、難しいね。

ま、ともあれ、白庄司さんが元気に生きていると分かって嬉しいわ。

今日のオマケ

1976年7月のアンガジェ解散コンサートの録音。一部をDATにコピーしておいたものも、壊れかけてきたので、辛うじて残っているやつをYouTubeにUPしておくことにした。
『土曜日の雨』のてっちゃんのベースと山下院長の間奏ギターソロ。今聴いても素晴らしい。

山下くんはこの曲のソロを任せると言った後、このフレーズを一生懸命考えてくれたのだと、今さら知るのだった。
他のメンバーは全員、この当時すでにジャズからロック、フュージョンまで、いろいろな演奏を研究していたのに、私だけがフォーク小僧のままだった。せいぜいローラ・ニーロやCS&Nの9thテンションコードにはまっていた程度で……。
ほんっとに、生意気なだけでバカな子どもだったわさ。

そんな苦い思いを噛みしめつつも、今日は何度もこの録音を聴いてしまった。
ジジイだねえ。

ちなみに、この『土曜日の雨』は、去年、今の気分で歌詞とサビ部分を少し変えた新バージョンを録音した↓

なんか落ち着いちゃったね。
あの頃、私が傷つけてしまった人たちへの懺悔と、自分への戒めと慰めを込めて……。

「黄金バット」に採用されたもう1つの曲『雨が降る』は、劇中では柴田恭兵がソロで歌った。
昔、自分で弾き語りしたやつがVimeoにあったのでそれもついでに……


           

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