いっしょうけんめいやるということと、意味があるかないかは別問題ということではないでしょうか。意味があるからいっしょうけんめいやる、意味がないからやらない、ということではないようですね。
私の理解では、仏の教えというのは、あらゆる意味がありそうなものには、実は意味がないということです。
私は建設会社で働いていました。中堅企業で、小さな現場の現場監督をまかされていました。
現場監督というのは、段取りの仕事です。1週間後、2週間後にどういう作業をやるか、図面を描き、下請け業者を手配し、材料を手配しという仕事です。同時に当日の作業の指示とチェックもしなくてはいけません。そして工期です。これは絶対です。でもだいたい作業の予定は遅れがちになります。せっかく段取りしていても、前の工事が長引いてご破算となり一からやりなおしになったりします。そういうときはがっくりきます。そして工期末が迫ってくるとたいてい胃が痛くなり眠れなくなります。あれもやらなきゃ、こちらも終わってない、と次々に心配ごとが頭に浮かんできて不安になりました。最後のほうはもうボロボロでした。ものすごくやせていましたし。
それであるとき、倒れてしまったのです。もう起き上がれなくなりました。ある現場の工期末の1週間前でした。会社の上司がフォローしてくれてなんとか工期に間に合ったのですが、もう心はボロボロでそれから会社にはいけなくなり、結局そのまま退職することになりました。
もともと仏教には興味があり、本を読みかじっていたのですが、どの本だったかに書いてあった、「人は未来につぶされる」という言葉がその時、心にわいてきたのです。ああ、自分はそうだと。工期という未来につぶされたんだと。
でもよく考えてみれば、工期前に現場監督が不安になったところでしょうがないのですよ。監督が実際に作業しているわけではないですからね。たんたんと段取りをしていけばよい。先輩の現場監督には、こちらからみるとハラハラするような状況なのに、まったく動せず、いつもカラカラと笑っている人がいました。その人の口ぐせが「なるようになる」です。そして毎回、なるようになって工期に間に合っていたのです。私からみると奇跡としか思えないのですが。そしてその監督は「ほらなるようになっただろう」とカラカラ笑うのです。
会社を退職してしばらく家でゴロゴロしていたのですが、その時いろんな考えが頭をよぎっていきました。その時、ふと気づいたのです。そういえば、自分の現場も結局は工期に遅れたことはなかったっていうことです。私が倒れたあとでさえ、工期には間に合ったのでした。実はなるようになっていたのですね。自分だけがやきもきして不安になって勝手に身も心もボロボロになっていたんだと。
3ヶ月くらい起き上がれなかったのですが、その時はもう死にたい死にたいという気持ちでいっぱいでした。それで起き上がれるようになった時に、ふらふらと家を出て電車に乗ったんです。どこで降りたかも覚えていないのですが、そこから山に登っていったんです。特にこうやって死のうとか思ったわけではないのですが、何も食べずに山の中をさまよってたらそのうち死ぬだろうというような感じでした。どこをどう歩いたか覚えていないのですが、道なき道をふらふらと歩いて行きました。疲れたら木の根をまくらに寝て、明るくなったらまたあてもなく歩いて行きました。2日くらいさまよって暗くなってきて足元が見えなくなった時に、くぼ地に落っこちたんです。身動きがとれなくて、あぁ、これでもうおしまいだ、と思ったらとても楽な気持ちになりました。
そうしていたら、声が聞こえてきたんです。「みんなつながっているんだよ」「だいじょうぶだよ」っていうんです。見上げると薄明かりの中に大きなナラの木が生えてました。そいつが話しかけてきたんですね。ついに死にかけて頭がおかしくなったんだと思いました。
そのナラの木が、「生きなさい」っていうんです。「だいじょうぶだから、ここで見てるから」って。それで手を伸ばしたら、木の根っこがつかめて、ぐいっとやったら体が起き上がれたんです。それでくぼ地から出て、またふらふらと歩きました。もうろうとした意識でよく歩けたと思うのですが、暗闇の中を歩き続けて、朝しらじらとしたところで里に出たんです。それが古いお寺の裏側でした。お寺の縁側にあがってもうへたって寝込んでしまいました。
気がついたら、おばあさんがいて「あんたどっから来たかね、そんなドロドロのかっこうして」って言うんです。でもそれ以上何も聞かず、暖かいお茶を出してくれて、おかゆも食べさせてくれて、それで生き返ったような気になりました。
おばあさんはその寺の隣に住んでいて、住職のいなくなった寺のお世話をしていたんですね。それでおばあさんは、しばらくそこにいろ、っていうんです。言われるままにいたら、そのうちおばあさんが村の人に私を紹介してくれて、適当なことを言って、しばらく寺に居候するんだっていうことになりました。私も寺の掃除を手伝ったり、そのうち村の人の畑仕事を手伝ったりするようになりました。みなさんとても親切にしてくれました。
そうこうしていたら、村の人が「あんた坊さんにならんか」って言うんです。その寺は前の住職が亡くなってから、継ぐ人がいなくて無住になったのです。檀家の数も減り、高齢化して、住職が来てもやっていけないというわけです。それで村の人は法事をするにも困っていたんです。村は年寄りばかりで、これから葬式をたくさん出さなくてはいけないが、寺が無住では困るというんです。死ぬときはこの村で死にたい、その時に葬式を町の葬儀場なんかでやりたくないって。
村の人に恩返しができるならと思って、それから3年間、本山に行って修行をしました。それで住職の資格をもらって寺に帰ってきたというわけです。残念ながら私が修行に行っているあいだに、私を助けてくれたおばあさんは亡くなってしまいました。私に坊さんにならんかと言ってくれたおじいさんも、脳梗塞で倒れて町の施設に入ってしまいました。
最近は毎月のように葬式があります。ずっと村を守っていた昭和ひとけたの世代が亡くなっていきます。町の施設に入っていた人が、寺に住職がきたならそちらで葬式をあげてほしいと遺言して、わざわざ葬式をやりにきてくれることもあります。
「なるようになる」というのは、ちょっと乱暴ですが、仏の教えでもあります。
般若心経に有名な「色即是空 空即是色」というフレーズがありますが、この空というのは平たく言うと、「この世界はなるようになっている」ということです。これはよく考えれば当たり前です。この巨大な世界をだれかが人為的に操作することはできません。なるようにしかなっていないのです。
色というのは私たちの肉体のことです。つまり、色即是空とは、私たちもこの世界の一部であるということを言っています。ですから、私たちもなるようになるということです。だから心配いらない、だいじょうぶ、っていうことです。もちろん努力していっしょうけんめいやらなくてはいけません。でも最後はうまくいくようになっているのです。それを信じることが信仰ということです。
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