2013/07/27
京都西明寺の阿育王石柱を見に行く
さて、大阪遠征最後は京都・西明寺へ寅吉が彫った「阿育王石柱」を見に行くの巻。
時間的に無理だろうと思ってほぼ諦めていたのだが、どうしても気になって、えいやっと無理して大急ぎで往復した。
時間に追われてパッと行って写真撮ってパッと戻るだけの強行軍。おかげでご住職に挨拶もしなかった。失礼しました。
まず、想像していたより西明寺は遠かった。
土地勘がないから、甘く見ていた。
「やっぱり行こう!」と決断したのが遅かったので、着いたのは夕方近く。
ネットで動画なども見ていて、もっと広いところを想像していたのだが、要するにこのへん一帯、山全体が観光地というか散策のためのコースになっていて、西明寺はそこに組み込まれている形。
紅葉のときが特に人気なのだろう。今は時季外れで訪れる人はまばら。
ここを登っていくと西明寺らしい
お寺の入り口。さて、阿育王石柱はどこだ~? と先へ進むと……
あった!
想像していたよりは高い
α300+ズボラレンズ(18-250mm)とXZ-10の両方でバチバチ撮る
これがルンビニ石柱に彫られているのと同じブラーフミー文字の碑文
「印度(インド)藍毘尼(ルンビニ)石柱 洛北槙尾山模刻」とある。インド(正確には現在はネパール)ルンビニにある石柱を、ここ槙尾山で模刻した、ということ。
詳しくは
過去の阿武隈日記⇒ここ を参照
もっと詳しく知りたい人は、
⇒ここからの5ページあまりを参照してください。
ものすごく簡潔に書くと、
- 明治の廃仏毀釈後、日本の仏教界は衰退していた。そこで明治期には釈雲照、釈戒光、その弟子・釈定光ら、戒律回帰を唱える僧のもと、若き修行僧たちがある程度宗派を超えて交流し、釈迦の教えの原点を探るべくインドに渡る者もいた
- その中のひとり稲村英隆は、明治26年インドに渡航して仏跡を巡礼し、日本に戻ってからは槙尾山西明寺の住職になった。
- 英隆は明治38年10月、西明寺住職を釈大真に引き継がせた。釈大真もまた、それ以前にインドに渡っている。
- 当時、インドでは「アショーカ王石柱群」が次々に発掘されていた。アショーカ王石柱群とは、インド北部に散在する一連の円柱遺跡。マウリヤ王朝第3代アショーカ王が建立した、あるいは少なくとも碑文を刻ませたと考えられている遺物。
- 現在、銘文が刻まれた状態で現存するのは19柱。その多くは壊れていて、完全な形で建っているのはほとんどない。高さは12m~15m(40~50フィート)、重さは50トン程度。
- その中で特に有名なのは、釈迦の生誕地とされるルンビニの石柱、インドの紋章にもなっている背面合わせ4頭の獅子像が石柱の上に乗っていたサルナートの石柱など。
- ルンビニの石柱が発掘されたのが明治28(1895)年。サルナートの柱頭部が発掘されたのが明治37(1904)年。
- つまり、稲村英隆がインドに行ったときにはまだ発掘されていなかったが、あとを継いだ釈大真は実際にインドに行き、これを見たようだ。日記に、拓本をとったということも残っている。
- 明治38(1905)年10月、西明寺住職を英隆から引き継いだ釈大真は、西明寺にルンビニの石柱レプリカを建てることを発案。しかし、ルンビニの石柱は下の部分しか残っていない。上には「馬の像」が乗っていたと古い記録に残っているが、実物は誰も見たことがない。
- そこでこの「馬の像」を、サルナートで発掘されたばかりの4頭の背中合わせの獅子像に似せて想像で彫ることを決めた。このアイデアは誰が出したのか分からない。
- 今ではアショーカ王石柱のレプリカは世界中に散在するが、失われた馬の像を想像で補ったルンビニ石柱のレプリカというものはここ西明寺のもの以外にはない(はず)。
- そのプロジェクトにあたる彫刻師として福島の石工・小松寅吉が指名された。
- 寅吉は自分の工房裏にある福貴作石で馬の像を粗彫りして京都まで運び、槙尾山の現場で仕上げた。大正元年に完成。今も西明寺に残っている
……と、こういうことになる。
インド~京都~福島を結ぶ壮大なドラマが明治末期に展開されていたのだ。
当時の日本仏教界の様子(戒律回帰への意気込みや若い僧たちの「原点回帰」への熱い思いなど)が伝わってくる。
こういうネタこそ、地元の新聞社、テレビ局に頑張って伝えてほしいものだ。
これが想像で作られた馬の像
「大正元年 建之 ?(花押のような??) 彫刻布孝」
小松寅吉生涯最後の大仕事だった
こんな感じで立っている
もともとは12~15mというから、これはおそらく1/2スケールで建てたのだろう
柱頭部台座はサルナートの石柱のコピー、4頭の馬もサルナートの獅子像から想像して彫られた
実際のルンビニの石柱がこうだったということではない。あくまでも想像の産物。そこがすごい
それにしてもよく彫れている
ネット上で「ルンビニーのアショーカ王石柱」を検索すると、「石柱は4本建てられ、柱頭には馬像があったと言われていますが、それは見つかっていません」という記述が複数出てくる。どれも同じ文章なので、コピーされて増えていったのだろう。
この文をそのまま解釈すると、柱は4本あって、その上に1頭ずつ馬がのっていたということになるだろう。
この柱はしかし、「柱は1本で、その上に4頭の馬」だ。
どちらが本当なのか?
三蔵法師(玄蔵)の旅行記には、「アショカ王によって建てられた尖塔に馬の像が掲げられた石柱があった。後に石柱は邪悪な竜から発した稲妻によって中ほどが破壊され、上部が地面に転落した」と書いてあるようだ。それだけであれば「柱が4本」とは思えない。「柱の上に4頭の馬」が、どこかで「4本の柱の上に馬の像」という風に間違って記述され、それがどんどんコピー増殖したのかもしれない。
いずれにしても、釈大真や小松寅吉らは、「柱の上に4頭の馬」と解釈したことになる。
そこで、柱の上に馬を4頭ものせるのはどうするのか? と考えたところでサルナートの石柱の獅子像を見て、「ああ、これなら4頭のせられる!!」とひらめいたのだろう。
実に面白い苦労談?ではないか。
馬の像は相当苔むしている
一眼レフを持っていってよかった
柔和な顔の馬。寅吉は石川町周辺にも何頭もの馬の像を彫っている
真下から見上げる
ばばば~っと写真を撮り、次の予定が入っていたために急いで大阪に戻った。
ご住職にはぜひお会いしたかったのだが、残念だった。
そのうち、地元のメディアが記事にするとか番組にするとかの機会があれば、ぜひ今度はゆっくりと訪問してみたい。
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