それにしても、この石鹸は、今もあの銃弾が飛び交う場所で淡々と製造されているのだろうか?
人間の営みとはなんなんだろうと、石鹸に銃撃映像を重ねて考えてしまう。
ここで、改めて「石鹸生活」についていろいろ思い出すことを覚え書きとして残しておこう。
上の写真に写っている石鹸は全部、要するに「ただの石鹸」であって、特別なものではない。
油脂の脂肪酸を水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)と反応させて作るのが脂肪酸ナトリウム。水酸化カリウム(苛性カリ)を入れると脂肪酸カリウムになって、この2つだけがいわゆる「石鹸」と呼べるもの、という定義だと思う。固形石鹸は脂肪酸ナトリウム、液体石鹸はほとんどが脂肪酸カリウムだ。
しかし、日本ではそれに香料や保存料、防腐剤など、様々な添加物を混ぜたものが多く、純粋に石鹸素地(脂肪酸ナトリウム)だけという製品はとても少ない。
石鹸の界面活性効果(汚れを分離させる効果=洗浄能力)はすぐに消える。これが長所であり短所でもある。
すぐに効果が消えて、汚れと結びついた石鹸カスに変わるので、その石鹸カス(有機物)をバクテリアなどが分解してくれる範囲内で使えば、河川の汚染にはつながらない。
しかし、大量に使えば、いわゆるBOD(生物学的酸素要求量)値が上がるので「水質汚染」とされてしまう。
BODの定義は「水中の有機物などの量を、その酸化分解のために微生物が必要とする酸素の量」(Wikiより)。簡単に言えば、水の中に有機物が多くなると、それを分解するためのバクテリアなどの数も多く必要となる。
このバランスが崩れて過剰な有機物が水の中に入り込めば、分解されないまま腐敗し、水の中が酸欠状態になる。水中の酸素が減れば、好気性バクテリアや水棲生物が生きられなくなるので、ますます水の腐敗が進む。
だから、なにがなんでも石鹸がいい、ということにはならない。大切なのは、河川の環境が受け入れられる範囲内の使用量に保てるかどうか、ということだ。
合成洗剤のほうが優れていると主張するメーカーなどは、石鹸を使った生活排水のBOD値が合成洗剤を使った排水のBOD値よりはるかに高いことを理由にあげるが、これは鵜呑みにできない。排水直後の石鹸排水は石鹸カスだらけだから、BOD値が高いのはあたりまえだからだ。
一方、合成洗剤の場合、BOD値が低い(有機物排出量が少ない)といっても、なかなか界面活性効果がなくならない(洗浄成分が分解しづらい)のが問題で、それが水棲生物などへ大きな影響を与える。
汚れがよく落ちて、一見排水も澄んできれいに見えても、その先の河川の生態系への影響が大きいのではないか、ということだ。
越後にいた12年間で、そのへんのことは実際に経験した。
某「植物◎◎」なる、「地球に優しい」とPRされているシャンプーを使ったら、土壌浄化層の中のミミズがあっという間にいなくなった。石鹸で洗髪している間はちゃんとそこにミミズがいて、石鹸カスやトレペの残り屑なんかを食って分解してくれていたのだが、「植物性で環境負荷が少ない」とPRされているシャンプーであっても、合成洗剤をちょっと使っただけでミミズが逃げていったのだ。
こういうことは、都市の生活ではまったく分からないし、田舎暮らしでも、よほど排水とその先の水路や土壌、河川の様子を観察していないと分からない。うちでは土壌浄化層を使っていて、当初、よくその中を覗き込んでいたために気がついた。
しかし、うちで石鹸を使うようになった最大の理由は、30代のとき急速に髪が薄くなってきたからだ。正直な話、自分の髪の毛が残るか抜けるかという問題は、一般論の環境問題より深刻だった。
これ以上抜けたら嫌だと、いろいろ調べているうちに、どうもシャンプーとリンスがいけないんじゃないか、ということになり、石鹸に変えたところ、抜け毛が止まったという次第。
もともと猫っ毛で髪の腰が弱く、細いので、合成界面活性剤のシャンプーには耐えられなかったのだろう。
これも経験から学んだことで、理論でどうこうということではない。
ちなみに、石鹸で髪を洗うと、アルカリ性なのでキューティクルが開き(落ちるのではなく、開く)、直後はごわごわっとした感じになるが、放っておけば元に戻る。
このごわごわ感が、普通の洗濯石鹸や台所用の固形石鹸ではちょっときついので、中東あたりで作られているオリーブオイル原料の石鹸を洗髪に使っている、というわけだ。
では、すべての人が石鹸だけを使うようになれば環境負荷は減るのか?
これは難しい問題だ。おそらくそう簡単にはいかない。もしかすると今よりひどくなる可能性もありそうだ。
もし、東京のような大都会で、すべての家庭が一斉に石鹸だけを使ったら、排水の有機物量が増えて、人工的な下水処理が追いつかないかもしれない。
石鹸は余っている牛脂や豚脂からも作れるが、メーカーがさかんに宣伝した「植物性」という呪文のおかげで、原料は植物油に片寄るだろう。となると、植物油の消費が急増し、ただでさえアブラヤシのプランテーション増加で熱帯雨林が減少している東南アジアなどでは、さらに環境破壊が進む恐れもある。
問題は複層的なのだ。
もうひとつついでに。
石鹸生活を勧めるにしても放射能の恐怖を訴えるにしても、中には現実離れして、まるで宗教盲信のように滅茶苦茶なことを言い出す人がいる。
そういう人(アジテーター)が、多くの「信者」を集めていくと、本来「よきこと」の本質が見失われ、貶められる結果にもつながってしまう。
石鹸についていろいろ調べていた時期がある。石鹸シャンプーを製造しているメーカーの技術者と直接手紙(あの時代はまだ電子メールが一般的になっていなくて、FAXで行っていた)のやりとりをして勉強したり、石鹸、下水道、化学物質汚染などについて書かれた本を読みあさった。
その中で、石鹸生活を勧める本の中に、とんでもない文章があった。
『インターネット時代の文章術』(SCC、1999年)の中でも紹介したのだが、こんな文章だ。
//発見は1974年。アメリカ、ロバート・ハリス博士は、非常に興味深いことに気付いた。アメリカ何分のミシシッピー河下流の水を飲んでいるニューオーリンズ住民の癌死亡率と、地下水を水道水として飲んでいる他都市の住民とを比較してみると、ニューオーリンズの方が、人口10万人につき、33人も多かったのです。
けっきょく、地下水の水道水を飲んでいれば死ななくてもすんだ人たちです。残念なことに、この人たちはこの南部の町に住んだだけで命を落とすはめになっているのです。//(『だから、せっけんを使う』船瀬俊介・著、三一書房 より)
……あまりにも滅茶苦茶な論に接して、唖然としたものだ。
この文はさらに続き、その原因はトリハロメタンやクロロホルムなどのハロゲン化有機化合物のせいで、水道水が塩素処理をされているから発生した発癌物質のせいだ、という主張を展開している。
解説するまでもないと思うが、
- 「地下水を水道水として飲んでいる他都市」とは具体的にどこなのか?
- どんな癌において「人口10万人につき33人多い」のか? 全癌においてなのか?
- 水道水の塩素処理のせいだけで癌発生率が増えたとどうして証明できるのか?
- 塩素処理をしていない水を飲んだ場合の病原体感染などのリスクとの比較はどうなっているのか?
- 地下水を水源にできない都市では水道水を河川から取水するしかないだろうが、塩素処理しなかったらどんなことが起きるのか?
……などなど、ツッコむべき疑問点は山のようにある。
それを全部無視して「地下水の水道水を飲んでいれば死ななくてもすんだ」とか「南部の町(ニューオーリンズ)に住んだだけで命を落とすはめになっている」などと言いきってしまうのだからたまらない。そんな人が「だからせっけんを使う」などと主張しても、それは石鹸生活をしている人たちにとっても大迷惑だ。
こうした根拠のない、欠陥だらけの暴論をアジテートする人たちがたくさんいる。今は、福島をはじめとする放射能汚染問題での議論にやたらと目立つ。
これは結果として核廃絶を願う人々の願いを汚してしまうことになる。
原子力問題の根本を見誤らせることにもつながる。
さらには、次から次へと新しい利権構造を作っては環境を破壊し、庶民の生活を圧迫していく連中を助けることにもなってしまう。
//自然エネルギーは膨大にあります。自然エネルギーの中心である太陽エネルギーだけでも、人類が使用する化石燃料と原油のおよそ1万倍もの膨大な量が降り注いでいるのです。そのわずか1万分の1だけで、世界全体を自然エネルギー100%に転換することができるのです。 (『エネルギー進化論──「第4の革命」が日本を変える』 飯田哲也・著、ちくま親書 より//
↑これなどは最たるものだ。
降り注ぐ太陽エネルギーを、人間が利用するための形に
「転換するために必要なエネルギー」は一体どれだけ必要で、
それ(転換するためのエネルギー)をどこから得るのか? という命題こそがエネルギー問題の本質なのだ。
降り注ぐ太陽エネルギーの量と現人類が使っている化石エネルギー(過去における太陽エネルギーの缶詰)の量を比較して、1万倍だの1万分の1だのといっても意味がない。太陽から降り注ぐエネルギーの
「1万分の1もの」膨大なエネルギーを化石燃料から得ている現状こそが問題なのであって、「自然エネルギー」と呼んでいるものを利用することで化石エネルギーの消費が減らなければ意味がない。
現状の大型風力発電施設(ウィンドファーム)やメガソーラーは、化石燃料資源の節約どころか、むしろ化石エネルギーを無駄遣いしているんじゃないの? というごくごく基本的、根源的問いかけに対して、答えを正しいデータと共に示せないまま「膨大な」とか「わずか1万分の1」とか形容しながら「だから自然エネルギーを推進する」では困るのだ。
届いた石鹸を見ながら、かつて味わった絶望感、虚無感を、今またエネルギー論争や「復興」論議で目の当たりにしているのだなあ、という思いがこみ上げてきて、軽くため息も出てしまった。