番外編2・テレビ番組の「ヤラセ」はどこまで許されるのか?

「ちゃんと見てるよ」では、過去何度か番組の「ヤラセ」疑惑について書いてきたが、実際にはテレビ媒体雑誌という弱みもあり、誌面に掲載されたときは骨抜きになっていることもある。
 週刊文春が、何様のつもりだテレビ局というキャンペーンを張っていたが、ああいう企画はテレビ系列を持つ雑誌メディアでは不可能だ。
 最初の頃は「この書き方だとテレビ局が怒るから、もう少し書き方を変えてもらえないか?」という修正要求があるたびに憤慨していたけれど、今はもう、そのへんで頑張ったりはしない。書く場所を失うことのほうがマイナスポイントが大きいからだ。
 先日、フジテレビ系列の『クイズ$ミリオネア』について書いた。最初の原稿はこんな感じだった。

 

『クイズ$ミリオネア』の演出係数

 フジテレビ系列でやっている『クイズ$ミリオネア』は、アメリカのABC系列で放送されている『Who Wants to Be a Millionaire』という人気番組をそっくりそのままもってきたわけだが、アメリカから一時帰国中の知人が、そのあまりの酷似ぶりに驚いていた。セットの作りは言うに及ばず、喉を潤す水の置き場所やテロップも同じ。友人に電話、50対50、観客に訊くという支援システム「ライフライン」も同じ。司会(みのもんた)が使う「ファイナル・アンサー」という言葉も同じ。「Is that your final answer?」という台詞は、アメリカではすでにギャグに使われるほどだとか。  ここまでそっくり「輸入」してしまうこと自体、情けないと思うが、僕がむしろ気になるのは、出演者たちの挙動だ。ここぞというところで間違えて、番組を「盛り上げて」いる。受け答えも妙に場慣れしていて、まるでシナリオがあるかのようだ。  つい思い浮かべてしまうのは、後に映画『クイズショウ』にまでなったアメリカのクイズ番組ヤラセ事件。番組を盛り上げるために出演者をオーディションし、事前に問題と答えを教え、完全演出していたという事件だ。  昨今のバラエティ番組ヤラセ事件の例を出すまでもなく、今のテレビ界では、そういうのは「ヤラセ」ではなく「演出」と呼ぶのかもしれない。ヤラセ事件が問題になった昔と今とでは、「テレビの常識」そのものが違うのだ、と言われてしまうのかな?


 北海道地区などではこのままの原稿で出たそうだが、首都圏版の校了ギリギリになって、もうちょっと書き方を変えてくれという要求があった。ちょうど留守をしていたので、結局は編集担当者が書き直し、事後承諾になった。首都圏版に掲載されたこの回の「ちゃんと見てるよ」は、下1段まるまる、編集者の訂正原稿で、僕が書いたものじゃない。
 確かに、「ヤラセじゃないのかな?」と思わせるような書き方はまずかった。その点は素直に認める。ただ、そう思わせてしまうところは、今のテレビ番組制作のあり方にも責任があると思う。
 そこで、この回の原稿は、以下のように訂正しておきたい。もう雑誌に掲載されることはないが、書き直す時間をもらえたら、こう書き直していただろう……という原稿だ。

クイズ番組に単純に興奮できない不幸

 フジテレビ系列でやっている『クイズ$ミリオネア』は、アメリカのABC系列で放送されている『Who Wants to Be a Millionaire』という人気番組をそっくりそのままもってきたわけだが、アメリカから一時帰国中の知人が、そのあまりの酷似ぶりに驚いていた。セットの作りは言うに及ばず、喉を潤す水の置き場所やテロップも同じ。友人に電話、50対50、観客に訊くという支援システム「ライフライン」も同じ。司会(みのもんた)が使う「ファイナル・アンサー」という言葉も同じ。「Is that your final answer?」という台詞は、アメリカではすでにギャグに使われるほどだとか。
 ここまでそっくり「輸入」してしまうこと自体、情けないと思うが、アメリカで話題になったクイズ番組というと、どうしても映画『クイズ・ショウ』のことを思い出してしまう。50年代に大ヒットしたクイズ番組が、実はヤラセだったという実際の事件が元になっている。見ているうちに、あの映画のシーンとダブってしまうのだ。
 もちろん、『クイズ$ミリオネア』がヤラセだと言っているわけではない。そんなことは一視聴者である私には知る由もないが、無垢な心で熱中できない自分がいる。昨今のバラエティ番組ヤラセ事件のことも、どうしても思い浮かべてしまう。「クイズ王」たちが活躍したあのクイズ番組黄金期の活気とスリルは、もう戻らないのだろうか?   


 さて、以下の文章は「小説」だと思って読んでください。

 司会者 「では、クイズを始める前に、ちょっとした頭の体操をしましょう。連想ゲームです。大きな動物といえば?」
 回答者太郎兵衛さん 「鯨!」
 司会者 「はあ~、鯨ですか。相当大きいですねえ」
 回答者次郎吉さん 「象!」
 司会者 「なるほど」
 ……
 司会者「では、そろそろウォーミングアップはいいでしょう。問題です。まだ手に入らないものをあれこれ思い浮かべることを、俗に『取らぬなんとかの皮算用』と言いますが、なんとかに入る動物はなんでしょう?
 ……

 後日、オンエアの後、局にかかってきた出演者からの電話に誰かが答えています。
 「はい……。もちろん番組だから、編集することはあります。はい……」
 
 
 
 話変わって、拙著『インターネット時代の英語術』の中で、こんなことを書いた。
 
 某テレビ番組の中で、外国人が街に繰り出して日本人に英語を話しかけ、無理矢理英会話の相手をさせるというコーナーがある。登場する「普通の日本人」がいかに滅茶苦茶な英語を話すかを見て楽しむわけだが、中身は笑っていられないほどひどい。
 ちなみに、このコーナーでインタビュアー役を務めるセイン・カミュという人物はフランス系アメリカ人(文豪アルベール・カミュは大叔父にあたるとか)で、6歳で来日。レバノン、バハマ、アテネなど、世界各地を転々としたという経歴の持ち主だが、どうも英語より日本語のほうが得意なんじゃないかという気もする。
 かつて朝の番組で同じようなコーナーの担当者として有名だった「ウィッキーさん」はスリランカ人。彼も生粋の英語ネイティブ・スピーカーではなく、日本語も達者というマルチリンガルタイプだった。どうも、この手の企画は、いくら英語がうまくても日本語が分からない外国人では務まらないらしい。笑いのネタにされる日本人の側も、相手の外国人が実は日本語がペラペラだと分かっているから、安心してでたらめな英語を話すのかもしれない。
(中略)

 セイン・カミュ氏の相手になる日本人は、みな物怖じせず、笑顔で意味不明の言語を話そうとする。ウィッキーさん時代よりも、日本人は度胸だけはついているのかもしれない。だが、肝心の英語でのコミュニケーション能力ということについていえば、逆にますます低下しているように思える。


 後日、某週刊誌で、このセイン・カミュの英会話コーナーのほとんどが、事前にオーディションした「仕込み」の役者を使っていたヤラセだと告発されていて、非常に白けた。要するに、ウィッキーさんは「生放送」であり、カミュは「編集」。それだけの違いだったのだ。
 

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