上の写真画像、左側は西明寺の阿育王石塔、右はルンビニーのアショーカ王石柱の碑文。こうして並べてみると、完璧に一致していることが分かる。
ルンビニーの石柱に刻まれているのは「ブラーフミー文字」と呼ばれる古代文字で、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ法勅がもっとも有名な使用例。ルンビニーの石柱にもこの文字が刻まれていた。
内容は、何度も紹介してきたとおり、
「アショーカ王が王位についた20周年にあたり、釈迦の生誕地であるこのルンビニ村を参拝した記念として馬の石柱を立てた。この村はお釈迦様の生誕地であるから、今後、租税を8分の1に減免する」というもの。
おそらく、この5行の文章を、インドに渡った釈大真和尚、あるいは別の誰かが書き写すか拓本を取ったかして持ち帰ったのだろう。
また、その人物は同じインド旅行の中で、
300km以上離れた(現在は車で6時間の道程)サルナートにも行って、4頭の獅子像が乗った別のアショーカ王石柱の柱頭部も見ていることになる。この柱頭部は柱とは分離した状態で発掘された。現在、柱頭部はサルナート博物館に保存・展示されているのだが、当時はどこにどのような形で保管されていたのだろうか。
おさらいしておこう。
稲村英隆和尚が西明寺の住職を継ぐ前、インドに渡ったのが明治26年。
ルンビニーの石柱が発掘されたのが明治28年。
サルナートの柱頭部が発掘されたのが明治37年。
稲村英隆が釈大真に西明寺住職を引き継いだのが明治38(1905)年10月。
西明寺に寅吉が彫った「阿育王石塔」が建立されたのがその7年後の大正元(1912)年。
ルンビニー石柱の文字を書き写し、サルナートの柱頭部(4頭の獅子像)を模写したのが釈大真だとすれば、明治37年か38年にインドを旅行していた可能性が高い。住職になった後にインドに渡ったとすれば、さらに7年、可能性のある時期が残る。
それにしてもである。写真技術や交通手段が未発達な明治時代末期、日本人僧侶がインドに渡って仏教聖地を巡り、アショーカ王石柱を克明に模写して持ち帰り、すぐに再現した(しかも存在していない柱頭部の動物像を想像して補って)とは、大変なことだったろう。
そのプロジェクトの仕上げを、東北の石工・小松寅吉が任され、成し遂げたのだ。
う〜ん、すごいすごい。
☆アショーカ王石柱の謎シリーズは、日記とは別系統にまとめなおしました。
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