何年か前に、
ピンホール写真をライフワークにしている女性に挨拶された。狛犬だったかスレッショルドだったか忘れたが、何かの上映会だったと思う。
そのときは、世の中にはいろんなことを真剣にやっている人がいるんだなあと感心したものだ。
ピンホールカメラで写真を撮る人たちに比べたら、狛犬の写真を撮っている人たちのほうが3桁くらい多いだろうなと思ったのだが、ピンホール写真というのはそれほどマイナーな趣味でもないらしい。
最近も、
アメリカの女性が自分のピンホール写真趣味について熱い解説を書き込んでいるのを見つけた。
彼女とはフェイスブック友達になっているのだが、いつどんなきっかけでそうなったのか覚えていない。英語の先生をしているらしいので、『Christmas in Nikko 2017』の歌詞の校閲を頼んだばかりだった。
彼女はフィルムを使わず、デジカメでピンホール写真を撮っているという。
で、改めてピンホール写真を撮る意義というか理由というか魅力はなんなのだろうと考えた。
ピンホール写真の特徴は、レンズを使わないので画角に関係なく歪み(収差)ができにくいことと、「パンフォーカス(近いものも遠いものも同じように写る)」であるということらしい。
人間の眼球は網膜が湾曲しているけれど、カメラのフィルムや撮像素子は平面なので、広角で写せば端にいくにしたがって形が歪む。
人間の目が見た風景にいちばん近いレンズは50mmだの35mmだの、いや凝視したときは85mmくらいだとか、いろいろ言われているけれど、ピンホール写真ならそういうことは悩まなくてもいい、ということか。
人の目(脳)に自然に映る映像とはどういうものか……そこにこだわった結果、1つのアプローチとしてピンホール写真というものがあるのであれば、像を記録する手段は必ずしもアナログ(フィルム)である必要はなく、デジタルでもいいじゃないか、という発想はよく分かる。
で、僕にとってのEWIもそういうものなのかな、と思った。
いいメロディを再生できれば手段はデジタルでもいいじゃないか……という割り切り。
大切なのは「目的」であって「手段」ではない。
しかし、それが逆転している趣味というのもいっぱいある。
シンセサイザーが出現したとき、シンセサイザーを使った音楽の多くは
手段が目的化していた。
富田勲氏が数千万円かけて自宅の一室に機材を並べて『月の光』『惑星』『展覧会の絵』などの既成曲を演奏・録音したのはその典型。シンセサイザーという代わった楽器が出現した。不思議な音だ。面白い……と。
それらの既成曲はすでに世界中で認識されていた「有名な曲」であり、シンセサイザーで演奏したから価値が上がったわけではない。実際、アナログ楽器で演奏したほうがずっと美しいし、作品の価値もよく分かる。
さて、僕が生涯つき合おうと思っているEWIという楽器もシンセサイザーである。
僕がEWIを使うのは、アナログ楽器を習得する時間やエネルギーを、メロディ──音楽作品そのものを作りだすほうに振り分けよう、という理由からであって、決して「電子楽器をいじるのが好きだから」ではない。
いや、もっとはっきりいえば、僕はシンセサイザーという楽器は嫌いなのだ。
楽曲のアレンジをする上で、効果音的にここに入れたいな、と思うことはある。例えば『Orca's Song』ではヒュ~~ンというポルタメント的な音を入れたい場所があって、4畳半スタジオに呼んでキーボードを弾いてもらったあっちゃんに指示し、その音が出来上がるまでずいぶん時間をかけたりもした。(あっちゃんの職人技はほんとにすごい。こちらの要求通り、いや、それ以上のことをすぐにやってくれる)
だけど、シンセサイザーを主役にまではしたくない。
「音」として好きな楽器はチェロ、ソプラノサックス、オーボエなどで、そうした楽器を自分で自在に演奏できるなら、EWIなどというものを使おうと思うはずがない。
好きな楽器を演奏できないから、代わりに、なんとか演奏できるEWIを「やむなく」演奏しているという意味においては、EWIは「貧乏くさい」。
チェロ音源を鳴らしたところで本物のチェロにかなうはずがないのだから。
ただ、EWIを使うことで、チェロではできない表現ができることもある。音域の広さやベンド奏法をしたときのずり上がり表現などがそうかな。速いフレーズも、擦弦楽器よりはずっとやりやすい。
アドリブをしているときの自由度というか、偶然に生まれるフレーズのバラエティも、おそらくチェロなどの擦弦楽器よりも有利だろう。チェロをマスターできたとしても、練習による「指癖」で、同じようなフレーズがしょっちゅう出てくるような気がする。これはギターでもそうだ。
EWIの運指はリコーダーとほぼ同じなので、小学生のときにマスターした指の運動機能を甦らせるだけでかなりのことができる。子供のときに自転車が乗れるようになった人は、その後ずっと乗っていなくても、またすぐに乗れるのと同じだ。
目の前にチェロを出されても弾けない。だけど、EWIなら吹ける。
……これって、目の前にオートバイがあっても自動二輪の免許は持っていない。代わりに電動アシスト自転車に乗って郵便局まで行こう……というようなものかな。
目的は郵便局まで行くことであって、オートバイに乗ることじゃない。電動アシスト自転車に乗ることでもない。
オートバイが好きな人や自転車が好きな人から見れば、電動アシスト自転車に乗る人はかっこわるく、貧乏くさく見えるかもしれない。
でも、郵便局まで行くという目的を果たすための手段だから、別にいいのだ。
自転車みたいに疲れないし、オートバイみたいに速すぎて景色を楽しめないこともない。ちょうどいい手段。でも、傍から見るとかっこわるいかもしれない。
……それが僕にとってのEWIかな。
理想は、高級アナログ機材が揃ったすごいスタジオに一流のプレイヤーを呼んで僕の作品を演奏してもらうことだけど、そうもいかないから、人から見れば貧乏くさいこと(EWIやら自宅録音やら)をやっているだけのこと。
話がずいぶんとっちらかったけれど、「デジカメでピンホール写真を撮る」という人にちょっとシンパシーを覚えたのは、その合理性とこだわりみたいなものに自分との共通性を感じたからかもしれない。……というお話。