同じ音楽を聴いていても、持っている「音感」によって聞こえ方がまったく違うということを知り始めたのは大人になってからだった。
「この曲、いいね」「だよね~」という会話を交わす二人であっても、聞こえ方、感じ方、いいと言っている意味が違うことは多い。
例えば、ギター1本で演奏している曲を聴いたとき、自然と
- 和音の中に作り込まれた「メロディ」を聴き取ってしまう人
- 和音が何か(これはAm7だ、とか)を聴き取ってしまう人
- 曲全体の雰囲気や演奏のうまい下手を感じ取る人
- ギターの音色に聴き惚れる人
……など、いろいろいる。
いいサンプルがすぐに見つからなかったので、こんなの↑を持って来てみたが、これを聴いて、
1)のタイプの人は、コードのトップノートにメロディを感じて「ミミミミミレー ミーファレミドレー レレレレレドー レーミドレシラー……」などと頭の中で自然と移動ドのドレミを歌っていたりする。
2)のタイプの人は、「頭のコードはなんだろう」……と耳を澄ませる
3)のタイプの人は、ちょっと聴いてすぐに「あ~、大した弾き手じゃないなこれは」と思う
4)のタイプの人は、「小さい楽器なのに結構音が出るんだな~」などと思う
……といった具合だ。
この話をしても、ほとんどの人に理解してもらえない。
というよりも、共感を得られない。
音楽をやっている人たちの多くは自分の音感に自信というかプライドを持っているので、自分が聴いている音の世界以外の聴感、音感を認めようとしない。
そういうことを全部呑み込んだ上で、自分がいいと感じる音楽を、偏狭にならずに追求していくのは大変なことだ。
ひとつだけ言えるのは、楽曲は音と音の相対的な関係でなり立っているものであり、基準音の高さをどこにするかなんてどうでもいい、ということ。
音色がきれいだとか演奏がうまいとかは、楽曲とは別の価値。もちろんそれも「いい音楽」を形成している要素だけれど、楽曲のよしあしとは関係ない。
演奏はうまいほうがいいし、音色はきれいなほうがいいに決まっている。リズムやハーモニーもかっこよく、心が躍るのがいい。
で、そういうこととは別に、僕は「よい楽曲」「よいメロディ」を作ることに自分の存在意義を見つけようとしてきた。
僕自身にとっての究極の音楽価値は「メロディという物語」であり、「音楽は音ではない」のかもしれない。
相対音感は大人になってからでも訓練次第で伸びる、という説がある。であれば、救いだ。
別にドレミ……のラベリングをしなくてもいい。大切なのは音と音の相対関係を「物語」として感じ取れるかどうか、だと思う。
優れた音楽家は、作曲家であれ、演奏家であれ、その能力を磨いているはずだ。