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のぼみ~日記2017たくき よしみつの日記2017


2017/01/10

狛犬と共に振り返る日本の近現代史(1) 江戸末期~帝国議会開設まで


小説版『神の鑿』を書けと周りからはいわれているのだが、幕末から太平洋戦争後までの日本はどういう空気、世相だったのか、なかなか想像ができない。
そこで、この時代、日本という国がどう動いていったのか、お上は何を考えて国を動かしていたのか、庶民はどう感じ、どう動いていたのかを、利平・寅吉・和平の狛犬を見ながら勉強し直してみようと思う。
メインの参考書は『戦争の日本近現代史』(加藤陽子)。

1796年 イギリスがスリランカを併合(イギリス領セイロン)
1804(文化元)年11月晦日、小松利平、高遠に生まれる

●1806(文化3)年~ 日本との通商を拒否されたロシアが樺太・択捉などを襲撃。津軽藩と交戦も。
 この後約50年、日本はロシアを最大の脅威として、イギリス、中国、アメリカへと対外関係を拡大していった。

1814(文化11)年から1816年のグルカ戦争によってイギリスがネパールを保護国にする

1830~40年頃 小松利平、高遠藩を脱藩して南福島に住み着く



1840(天保11)年 八槻都都古和気神社の狛犬(小松利平・推定)



1843(天保14)年 沢井八幡神社の波乗り兎(小松利平・推定)



1844(弘化元)年6月6日、寅吉、山形村に高原家の長男として生まれる


幕府が弱体化し、尊皇攘夷を唱える薩長などの勢力が倒幕に動く。
●1853年(嘉永6)年 ペリーが初来航。

1858(安政5)年、イギリスがムガル帝国の君主を廃し、イギリス東インド会社を解散させ「インド帝国」を成立させる

★忘れてはいけないのは、江戸時代は「士農工商」という身分制度があった時代だということ。武士は生まれたときから官僚であり、庶民の生活とは別の世界に住んでいた。それがたとえ豪商などより貧しい内容であったとしても……。
★江戸時代、庶民はもとより武士たちも海外事情など分かってはいなかった。庶民は自分たちと政治(まつりごと)とはまったく無関係で、権力に逆らって何かを成し遂げるなどということは考えることもなかった。
★しかし、それまで海外の文明・文化のお手本ともなっていたインドと中国が、列強の実質的な植民地にされてしまったことは、日本人に強烈な衝撃と恐怖を与えた。
★そうした空気の中、明治維新へと社会が激動していった。

この頃、寅吉が小松利平に弟子入りして石工修業を始める



1859(安政6)年 須賀川市朝日稲荷神社の狛犬 利平55歳? 寅吉15歳



1861(万延2)年 烏峠稲荷神社の狛犬 利平57歳? 寅吉17歳



1865(慶應元)年 沢井八幡神社の狛犬 利平61歳? 寅吉21歳


●1867年(明治維新) ~攘夷論で倒幕した新政府は軌道修正の正当性を庶民に理解させる必要があった
        最大の緊張・危機感は対ロシア問題
        吉田松陰の朝鮮論(列強との公益で失った損害を朝鮮や満州で償うべき)
        木戸孝允の征韓論(日本が王政復古したのだから、朝鮮は天皇に服属するのが当然)
        ⇒アジア主義(日本が盟主となり、アジアを結集させる)に発展していく
        
        国家の元気を取り戻すための立憲征韓がワンセットで考えられた
1873(明治6)年 徴兵令、皇紀(神武天皇即位紀元)の制定、
        明治六年政変……岩倉使節団(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など)が欧米にいる際に留守政府(西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・江藤新平など)で征韓論が高まる。岩倉らが帰国後、西郷隆盛の案に反対。明治天皇は岩倉案を採用。その結果、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平などが辞職

1874(明治7)年 大久保利通「政府の強力な指導による産業化で富国を達成すべき」
         板垣退助らが愛国公党を設立⇒自由民権運動へ
         民撰議院設立建白書( 板垣退助・後藤象二郎らが国会設立を要望)

1875(明治8)年 江華島事件
         平民苗字必称義務令(すべての平民が苗字を持つことを義務化)

1876(明治9)年 日朝修好条規 ペリー来航のときの経験をそのまま逆に応用した「砲艦外交」で、中華思想からの脱却が遅れていた朝鮮に対して不平等条約を締結することに成功
          廃刀令、金禄公債証書発行条例(士族の特権が失われる)

1877(明治10)年 西南戦争

1878(明治11)年 大久保利通暗殺、陸軍省から独立して参謀本部創立

1879(明治12)~の10年間 自由民権運動活発化(ヨーロッパで起きたデモクラシー運動とは違い、個人主義思想よりも国家主義的色彩が強い。国の独立・進展のためにはまず国民の意識が高まることが必要。そのためにも国会開設が急務……という論) 
この時期、イギリス・フランスによるアフリカ再分割が本格化

「琉球処分」……清国に対して朝貢を続けていた琉球(沖縄)の尚泰藩王を明治政府が武力で脅迫し、中国への朝貢を完全に停止させ、「沖縄県」を設置。宗主国であった清国は日本政府に厳重抗議するも、すでに弱体化していたので武力行使にまでは至らない⇒尖閣列島をめぐる中国との領土問題として今なお尾を引く

福沢諭吉「通俗民権論」……民権が伸張しないのは政府が圧制するからではなく、人民の知力が足りないから。官と民に適度な対立と競争があってこそ双方が発展できる。

一方の政府内軍事当局の対外意識は……
1880(明治13)年 山縣有朋 強兵が富国に優先する。兵備がなければ国家の独立は守れない。
   清国の対朝鮮への干渉が強まるのを警戒。清国は日本の朝鮮進出を警戒。
   
1881(明治14)年 伊藤博文が大隈重信を追放、国会開設の詔 (10年後の1890年に国会を開設する公約)、板垣退助が自由党(自由主義派)を結成

1881(明治14)年7月13日 石川町沢井に、小林悟三郎・クラの次男として小林和平生まれる。 この時、小松利平は76歳でほぼ隠居状態、小松寅吉は37歳の働き盛り


1884(明治17)年 自由党解党 清仏戦争

1885(明治18)年 イギリスが巨文島(朝鮮半島の南部沿岸沖にある軍事拠点)を占領。その際、イギリスは清国に許可を得た⇒日本に衝撃(朝鮮がロシアに占領される事態を清国が作りだしてしまうのではないか、という懸念←山縣有朋・西周ら)

1887(明治20)年 大同団結運動

1887(明治20)年 関和神社(白河市)の狛犬(銘なし)寅吉43歳

寅吉は利平のもとで次々に作品を彫っていくが、利平存命中は決して作品に自分の名前を刻まなかった

1888(明治21)年8月1日 小松利平没。83歳。寅吉44歳


1888(明治21)年 山縣有朋 「イギリスとロシアが東アジアで競合している。ロシアの進出先は朝鮮とインド。日本は朝鮮を舞台として英露間に戦争が勃発することを警戒すべき。日本としては朝鮮を清国との宗主属関係から切り離し、独立国として国際社会に立たせ、欧米列強が朝鮮を領有しないように戦略を練るべき」

この時期、民権派と軍部で、東アジア情勢への認識に大きな差はなかった
1890(明治23)年 帝国議会開設


この後は……
■日清戦争(1894-1895)

■日露戦争(1904-1905)

■第一次世界大戦(1914-1919)

■満州事変(1931)

■太平洋戦争(1941-1945)

……と続くが、それはまた次の機会に。

このテーマでの続きは⇒こちら


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