映画『Threshold: Whispers of Fukushima』のDVDを日本でも購入できるように……と、Toko監督が作業中。一足先に、折りたたむとDVDケースにもなる印刷物が到着した。
昨年末、福島(南相馬)、京都、日光で上映会をやったが、今のところ、日本国内でこの映画を見た人は3桁に留まっているだろう。
もうすぐ3.11から5年ということで、テレビなどでは特番が組まれるのだろうが、津波被害と原発爆発問題は別のことなのに、一緒くたにされて「復興だ」とか「まだこんなに爪痕が」といった伝えられ方をする。
被害に直接関係しなかった人たちの多くは、今の生活、今抱えている問題でいっぱいいっぱいで、「フクシマ」のことに真剣に向き合うだけの余力、余裕がない。
時間が経てば経つほど、忘れるというよりも、問題の本質が何なのか、分からなくなる。ぼんやり見えてきても、それ以上、はっきり見えてくると疲れるので、考えることをやめてしまう。
それは仕方がないことだとも思う。
僕自身は、「フクシマ」については時間が経てば経つほど複雑さが分かってきて、言葉で伝えることが困難になっている。
一夜明けて、フェイスブックを通じてこんな文章に出くわした。
「進学校に通うきみへ」というエッセイ。
先日、今では日本有数の進学校になった
母校・聖光学院に8人の同期生が集まった。その体験の直後でもあっただけに、興味深く読んだ。
僕の人生は順調です。中学は国立大学の附属中学、高校は県一番の進学校に入りました。
高校でちょっと伸び悩んで、まぁまぁの大学に入りました。在学中にロサンゼルスの大学に留学し、4月に世界的なIT企業に入社、一年目から年収500万円に届きそうです。我ながらそこそこ聞こえのいい人生だと思います。しかし僕は今、会社を辞めてミュージカルアニメーション作家を目指そうなどという、一見わけの分からないことを考えています。つまり、あれです。いま全然幸せじゃありません。
……こんな風に始まるこの文章は、ちょっときれいに書かれすぎているという気はしたが、鋭い指摘がいくつか出てくる。
高校受験、大学受験、大学でのゼミの選択など、これらの節目に、学校の価値観とは必ずしも合わないような進路を選ぶ子が少なからずいました。チア部があるという理由で偏差値の低い高校に行った子、ファッションが好きでファッションの大学に行った子、(少なくとも周りから見て)突拍子もなく美大に入った子、大学を中退してDJになっちゃった奴。
進学校における選民意識と俗っぽい価値観の支配は、中にいる間は気付かない、長く換気をしていない部屋のニオイのようでした。
レールの上を順調に歩んでいた僕らは、心のなかで彼・彼女たちのおでこに、「勉強についていけなかった人たち」という刻印を押しました。
彼らからしたらちょっと何勝手に押してんのって感じだろうけど、僕たちは確実に押しました。
心の中で、彼らのおでこに。
……このへんの感覚は僕には分からない。でも、そう告白している人がここに実際いるのだから、他にもいっぱいいるのかもしれない。
自分の人生を歩まない大人の末路は悲惨です。内なる声を無視し続け、他人の価値観を生きるとどうなるのでしょう。
すると、やがて他人との比較でしか自分を定義できなくなってしまいます。
そうなると、人間は「他人の人生の粗探しモード」に入ってしまいます。
こうなってしまうともう本当に取り返しがつきません。そういう大人が沢山います。東京カレンダーのエッセーとかが参考になります。
ここに出てくる「
東京カレンダーのエッセー」というのが分からなかったのでリンク先を読んでみたら、ああ、そういうことね……。例えば
⇒こんな人生観、ってことなんだろう。
僕の人生の中ではまったくかすりもしなかった世界だし、興味がないから考えたこともなかったけれど、実際にこんな価値観で人生を歩んでいく人たちが少なくないのだとしたら、想像しただけで気持ちが悪くなる。
このサンプルはともかく、「他人の人生の粗探しモードに入ってしまう」という指摘は、その通りだと思う。
自分の人生は失敗だったけれど、あいつよりは幸せだ……と考えたくなる、というのは、自分自身にもあてはまるかもしれない。
ただ、正確にいえば、そのとき比較する対象は他人の人生ではなく、社会的に成功していたと仮定した自分の人生だ。
もしも社会的に成功していたら、今頃自分はどんな生活をしているのか、自分の人生はどうなっていたのか……その「仮定上の自分」の人生と現実の自分の人生を比較して、「きっと成功していたらしていたで不幸な要素が増えていただろう」などと想像してみる。酸っぱい葡萄。
……まあ、そういうことはあるよね。
で、この人のエッセイの最後はこう結ばれている。
あるプラットフォーム(ここでは進学校)に居ながら、その場が提供する価値観を共有しないで生きていくとか、その価値観に理由を求める、その価値観を疑ってみるというのは非常に難しいことです。
それがプラットフォームの力というものです。プラットフォームにいると、人は何も考えずに都会に行く電車に乗ってしまうのです。
実は、↑この「ある種の価値観を疑わず、その価値観が示すレールの上を進む」人が増えることは、社会の不合理性を形成するほんの入り口に過ぎない。
本当に怖いのは、そのレールが「他人の価値観」ではなく、自分自身の価値観であると確信し、悩むことなく、自分の才能をそのレールを突き進むことに使う人たちの存在だ。
彼らは基本的に悩まない。だから、レールの上でどんどん出世していく。
上の地位に行っても、悩まない。トップに立った後も、現場の悩みを知ろうとしない。
勉強はできるし、知能が優れている人たちだから、社会のさまざまな不合理はもちろん見えているし、その原因が何かもある程度は理解しているだろう。
でも、そこで悩まない。「世の中はそういうものだ」ということで、自分の中で処理してしまう。
この「世の中はそういうものだ」と割り切って自分の中に悩みを形成しない能力・資質にこそ、底が見えない恐怖を感じる。
そこで、ようやく社会のシステムがバグっている原因が見えてくる。
代表例は税金の徴収方法と使われ方。おかしいということは誰でも分かる。
不合理なシステムが形成され、それを訂正する力も生まれてこないのはなぜなのか。「頭がよくて悩まない人たち」の存在も大きな要因なのだ。
結局、社会の最上位に近い階級にいる人たちも、底辺であえぐ人たちも、「家庭保守主義」とでも呼ぶべき同根の原則で生きている。
「○○のほうが今の生活を大きく変えることがなさそうだ、安全そうだ」……という思いこみで生きている。
たいていの場合、この「○○のほうが」には「積極的に動かないほうが」とか「黙っていたほうが」とか「上から言われたことに従ったほうが」というのが入る。
根拠はない。
なんとなくというか、経験則というか、見えない大きな力で、そう思い込まされている。無意識のうちに行動をコントロールされている。
でも、不合理な社会システムは必ず大きな破綻を招く。それは歴史が証明している。
ただ、壊れる順番は、必ず下層が先だ。
まずは徹底的に下層社会が壊されたあとで、上も崩れる。
そのタイミングによっては、上の人たちは人生という時間の中で「逃げ切り」ができる可能性が大きい。
「逃げ切れる人生=人生ゲームの勝利」だとすれば、あながちこの「勝利の方程式」は間違っていないのかもしれない。
……と、そこまで考えていったときに、改めて慄然とする。怖い。
でも、その恐怖を見据えた上で、そういう社会に生まれて、生きて、死んでいかなければならない自分の人生を「よりマシな」ものに組み立てていくしかない。
自分に合っていない価値観を疑ってかからない人生なんて、到底考えられない。
死ぬ前に「あれ? やっぱり自分の人生は最初から価値観を間違えていたんじゃないか?」と気づくとしたら、それ以上の恐怖はないだろうから。