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のぼみ~日記 2015

2015/10/27

目の不自由なヘビ




連載コラムの担当編集者から久々に直電。「いただいた原稿に差別用語が入っているという指摘があり……」と言う。
なんだろうと思ったら、「炭坑夫」だって。
どこがいけないの? って訊き返しながら「炭坑夫 差別」で検索したら、⇒ここ とか、⇒ここ とか、⇒ここがヒットした。
炭坑夫はよろしくないので、「炭坑作業員」か「坑内員」に直すべきらしい。校正では「坑内員」に直されていた。
しかし、そんな言葉聞いたことがない。口の中が痛くなりそう。
で、炭坑夫のどこがいけないのかが、やっぱり分からない。「炭鉱」がいけないの? それとも「夫」のほう?
リストを見ていると、どうやら「夫」とつく言葉がことごとくダメらしい。

工夫 ⇒ 作業員
鉱夫 ⇒ 炭鉱労働者。鉱山労働者。坑内員。鉱員
坑夫 ⇒ 坑内作業員。坑員
漁夫 ⇒ 漁船員
線路工夫 ⇒ 保線区員
郵便夫 ⇒ 郵便集配員
……。

これって、「看護婦さん」はいけなくて、男でも女でも「看護師」にしましょうとか、「スチュワーデス」はいけなくて「キャビンアテンダント」にしましょう、っていうのと同列なのか?
つまり、「炭坑夫」って呼ぶと、炭鉱で働いている女性に失礼だってことなのだろうか?
「漁夫の利」は「漁船員の利」って言わないといけないのか?

「芸人」や「坊主」、「板前」もダメなんだとさ。寿司屋の板前は「寿司料理店の調理師」になるらしい。
他にも、「不治の病」は「重病」に、「足を洗う」もダメらしい。

そもそもこういうリスト、誰が作ったの?

言葉刈りが議論の的になるのは今に始まったことじゃない。
筒井康隆氏が断筆宣言をしたのは1993年。そのとき、この事件に触発されて僕が書いた短編を思い出した。
『目の不自由なヘビ』という。
その後、長編小説『ポチの耳・私の髪』という作品に作中作として入れた。(ブクログで読めるので、興味のある方は⇒こちらでどうぞ)

あれから20年以上経ったが、今はもう当時のような論争をする元気もない国になってしまったかのようだ。

フェイスブックでこの話題を出したら、聖光の同期で国語教師のSくんがしっかりしたコメントを書き込んでくれたので、引用。

もともと「差別用語」とか「差別語」とか決まった「語彙」があるわけではありません。ある表現が「この言い方は差別的である」と判断されるのは、それはその時代や社会のあり方を反映しているということです。ですから、数十年前の文学作品などに、今では普通使わない(使えない)表現があったりするのは、ごくあたりまえのことです。それが理由で国語の教科書から消えた作品はいろいろありますね。

まさにそういうことだ。
語彙の使用を禁じれば片付く話ではない。そこから「歴史」や「思想」「哲学」を学び取ることが大切なのだが、「言葉刈り」にはそうした姿勢がまったくなく、単に刈り取るだけ。
デジタル化社会となった現代では、ブログサイト管理会社などがキーワードで検閲していて、書いた文章がUPできない、なんでだろ……みたいなことが起きている。
文章の内容に関係なく、語彙を機械が拾って一律に管理しようとする社会。恐ろしいことだ。
だからこそ、単純に「これは『差別語』かどうか?」というところで議論しないようにしていかないと。「語彙」を一律管理しようとするのは、その延長上にニーズがあるから。自分としては、絶対にそこに加担したくない(腐っても国語教師・・・?なので(笑))。

……だよねえ。

恩師・井津先生に共に学んだクラスメイトが、今こうして「呑み込まれない」生き方をしていると知って嬉しくなった。
しかしまあ、歳取ると、いちいち腹も立たず、面倒くさいなあ……って思うだけになる。
今回も、「坑内員」なんて、文章を書いて金もらっている僕でさえ聞いたことない単語だから、「じゃ、直前に『炭鉱』って書いているから、作業員、ってことで……それなら分かるだろうから」と、さっさと片づけた。

WEBで縦書きの苦悩




ところで、『目の不自由なヘビ』をWEB上にUPしてあったかどうかを確認するためにGoogleで検索したら、こんな読めない表示が出た↑
なんだこれ? とアクセスしたら、文藝ネットの中の1ページだった。



発起人として佐伯一麦さん、森下一仁さんを誘って文藝ネットを立ち上げたのは2000年3月。紙媒体以外での文芸作品の発信可能性を探る……ということで始めたのだが、わずか15年前なのに、今このサイトを見ると隔世の感がある。

当時はまだ電子ブックもなくて、文芸作品を紙の本以外で発信することには作家も出版社も大きな危惧を感じていた。簡単にコピーできてしまうから、盗作や海賊本がどんどん出てくるだろう、という危惧だ。
また、文芸作品はやはり縦書きで読んでもらいたいというこだわりもあった。
そこで、擬似的に縦書きにするソフトなんてものも出てきて、そういうものを使って作ったのがこのページ。
縦書きで表示すると、「 」は90度回転したままになって変なことになる。










↑こんな感じ。
そこで、一部の記号類などを別の似た記号に変換するというようなことをしている。
苦肉の策というやつだが、なんのことはない、当時のInternet Explorerではまともに見えていたのだが、Chromeで見るとこのザマだ。

発足の挨拶というページも同様。

僕のChromeで表示したところ↑ 当時は横640px以上のモニターはほとんどなかったので、壁紙も、今のワイドモニターで表示するとこんなことになってしまう。



Internet Explorerで横幅を縮めて表示すると、辛うじて見られる?↑



この方法にはもうひとつ大きな問題があった。
盲目の読者から「読めない」というメールが来たのだった。音声読み上げソフトを使ってWEB上の文章を読んでいるが、文藝ネットの作品がでたらめな音声になってしまって「読めない」というのだ。
なるほど、それはそうだ。無理矢理縦書き表示にしているのだから、横に読み上げたらなんのことだか分からない。

とても悪いことをしてしまった気がした。
15年経った今は、僕自身はもう縦書きにはこだわっていない。電子ブックでは縦書き対応ができるので、文芸作品を電子化する場合は縦書きにしようと工夫するが、たいていのものはもう横書きでいいと思うようになった。欧文や記号類などが横書きではないと読みづらいことも多いし。

コピーされるということに関しても、盗作は困るが、引用を明示してくれるならどうぞ、という考えだ。
人生の残りが少なくなってくると、考え方が根本的に違ってくる。今の世相を見ても、自分が生きている間にもう一度豊穣な文化の時代になるとは思えない。
それなら、次の世代へ、自分が死んだ後にも何らかの形で作品が残る可能性を増やすには、むしろコピーでも何でも、多くの場所に置いてもらえたほうがいい、と思うようになった。
そうなると、作家はどうやって食っていけばいいんだ、という大問題に直面する。これはデジタル時代になってからずっと抱えている問題だが、今までのように本やCDといった「もの」で作品を配布する時代ではなくなった以上、杓子定規に考えても解決しない。

多分、僕が売れて成功していたら、違う考え方をしていただろう。守りに入るというか……。
だからまあ、これは僕個人の「ためいき」「つぶやき」「諦観」のようなもので、一般論や主義主張として言っているのではないことをお断りしておく。




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「福島問題」の本質とは何か?


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第3章 壊されたコミュニティ
第4章 原子力の正体
第5章 放射能より怖いもの
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裸のフクシマ  『裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす』(講談社 単行本352ページ)
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第1章 「いちエフ」では実際に何が起きていたのか?
第2章 国も住民も認めたくない放射能汚染の現実
第3章 「フクシマ丸裸作戦」が始まった
第4章 「奇跡の村」川内村の人間模様
第5章 裸のフクシマ
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