たくき よしみつ シドニー五輪テレビ観戦記3
「ちゃんと見てるよ」(「TVライフ」連載)では書ききれない、シドニー五輪テレビ中継批評をリアルタイムで掲載。
Qちゃんはやっぱりダントツに強かった。すごいなあ
高橋尚子の優勝は、ほんっと~~~に凄いことだ
指折り数えて待っていた女子マラソンレース。スタートが早朝なので(日本時間朝7時は「早朝」とは言わないという人もいるでしょうが、私にとっては熟睡タイム)、仕方なく、昨夜からずっと寝ないで待っていた。
高橋尚子は優勝以外はない。それはもう、田村亮子の金メダル以上に「でなければならない」。そう思っていただけに、逆に、頭の中では、負けるときのパターンばかり考えていた。
練習のしすぎで足の指の股が裂けていたというけど、まだ回復していないんじゃないか。高地トレーニングやりすぎて消耗しきっているんじゃないか。オーストラリアのシーフード食い過ぎて、また入院しているんじゃないか。当日朝、階段を踏み外して骨折するんじゃないか。興奮して、一睡もできないままレースに出てくるんじゃないか……。
スタート前、宿舎を出た高橋の姿が映し出された。はしゃいで踊っている。なんなんだこの子は? 大丈夫なのか? 危ない薬でも打っているんじゃなかろうか? レースが楽しいと思うあまりに、遠足の前の小学生状態になっているんじゃないか? ということはやっぱりわくわくして眠れなかったなんてことになっているのでは?
思えば、過去のマラソンレースには、期待が大きいときほど裏切られてきた。ソウルの中山。ロスの宗兄弟。松野の代表選考が絡んだ大阪国際。何度も何度も訪れた、早田の代表選考レース。バルセロナの谷口・中山。そして今年は、弘山の大阪国際……。
今度こそは……と期待するときは、必ず駄目だった。だから、今回も、これだけ日本中が期待していて、その期待通りにQちゃんが優勝するなんてことはないんじゃないかという不安がずっとつきまとっていた。
本当は、眠らずに過ごした昨夜、レース前へのエールをここに書こうかとも思ったのだけれど、そこまでやっちゃうと、本当に期待はずれに終わる気がして、自重したのだった。高橋も山口もこけて、市橋が中途半端に銅メダル……というような最悪の結果も予想していた。
……という不安を拭いきれないまま、朝7時が来る。レースは始まった。
あれ? Qちゃん飛び出さない。山口も飛び出さない。なんで? これじゃあ、ソウルの中山と同じで、燃焼しきれないままレースが終わるんじゃないのか? だめだよ、相手に合わせていたら。それとも調子悪いのかな。でも、名古屋のときだって、最初はこうだったもんな。でも、あのときは調子が悪かったんだよな。調子が悪くても、23分台は出せる。それがQちゃんの凄さだけど、オリンピックでは油断大敵火の用心。特にシモンは怖いぞ~。
そう思っているうちに、心配していたとおりのレース展開になっていく。大集団で牽制し合っている。まずいよなあ。これじゃあ、市橋の思うつぼじゃないか。市橋が日本人1位というのだけはやだよ。(この際、個人的な感情むき出しで書いてます。市橋ファンのみなさん、ごめんなさいね)
市橋が落ちていった後も、シモンだけはなかなか振り切れない。ああ~、弘山の二の舞か。シモン、絶好調。よほど調子がいいんだなあ。完璧に仕上げて、自信満々でシドニー入りしているんだろうなあ。走りが軽いもんなあ。それに比べて、Qちゃんの走りは今イチ重い。重いと言うよりは、乗り切れていない。体が固い感じ。それを無理矢理エンジン全開で引っ張っていくQちゃん。エンジンオイルがどろどろに汚れていて、タイヤの空気圧も不適正なのに、とにかく桁違いの排気量エンジンにものを言わせてぐいぐい突っ走る。なんか、整備不良のセルシオ(高橋)と、完璧に整備されたフィアット(シモン)が併走しているような感じ。
それでも、いや、Qちゃんは強いんだ。負けないんだという気持ちもあって、このままいけちゃうんじゃないかと期待していた。
最後、シモンの追い上げはものすごかったですね。
40kmからゴールまでの2.195kmを、高橋は7分55秒。5kmを18分2秒のペース。シモンは7分35秒。5kmを17分16秒ペース。20秒追い上げたということは、距離にして約100メートル追い上げたことになる。最後はたったの8秒差。あのままもう1周していたら危なかった。
最後に5km18分台にまでペースダウンしていたということは、Qちゃんもかなりバテバテだったということだ。タフなコースとはいえ、やっぱり調子が完全ではなかったのではないかなあ。
本当に調子がよかったら、最初から飛ばしていたかもしれない。調子が悪かったので、最初は自重していたのだろうか。でも、最後にトラック勝負は避けたいから、2段構えのロングスパートをかけて優勝。う~~ん、頭もいい。しかも、それを全然表には出さずに、ケロッとした顔をしている。これはもう、常人にはとうてい真似ができない。
それにしても、僕は高橋尚子という選手、最初は好きじゃなかったんですね。正直な話。
最初に日本新を出したときの名古屋あたりまでは、なんだこの子は? 感情が平坦で、ずーっと笑顔で、大体、あの怪しげなオヤジが好きだってのが変だよな、とか思ってた。
松野や弘山みたいな悲劇性が微塵もない。ニコニコと健康優良児的な笑顔で、なんか人間的な心の起伏というか、感情のひだのようなものが感じられず、ロボットを見ているみたいな気がしていたんですね。
でも、アジア大会からガラリと見方が変わってしまった。
この子、とてつもないやと気づいたわけです。他の選手とはまったく比較ができない。本当の逸材。
あのアジア大会は、マラソンにはまったく向かない酷暑のレースで、有力選手はゼロ。優勝してもなんのメリットもない。そういうレースに逸材・高橋を派遣する陸連に、怒りを覚えた。あのレースを本気で走ったら、選手生命を縮めてしまう。でも、Qちゃんは素直すぎるから、最初から全力疾走。30度を超える炎天下、22分台。これはもし20度くらいの気温だったら、16分台くらいはいくんじゃないかという記録。前人未踏はもちろん、今後半世紀は破られないだろうという女子の世界最高記録が生まれていたはず。
アジア大会での驚異的な記録が出たとき、僕は本当に陸連への怒りが押さえきれなかった。こんな逸材を、くだらない国家のメンツのためにつぶしていいのか? この子はもう、二度とマラソンを走れないほど疲弊しきってしまったんじゃないのか。今後は故障だらけで、実力を示せる舞台に立てないのではないか……。なんで適当に走らなかったんだ。馬鹿正直すぎるよ。もっと自分の身体や将来のことを考えなくちゃ。
でも、あのレースの後も、Qちゃんはケロッとしていた。もう、完全にノックアウトされてしまった。この子は、常識を超えてすごいんだ。桁違いに凄いんだ。実力もさることながら、精神的にも、とてつもなく大人なんだ……と。
健康優良児的な笑顔というのも才能のうちで、本当はめっちゃくちゃ苦しい練習とか、周囲への気配りでへとへとになるとか、いろいろあるはず。それを一切表に出さない。真似できないよ、とても。
小出監督への評価もかなり変わった。怪しいオヤジには違いないけれど、あまり悪感情を持つことはなくなった。この人も、正直な人なんじゃないかなと思うようになった。
有森との師弟関係なんかを記事で読んで、なるほどと思うところもありましたし。
「鈴木博美は勝つために走る。有森は自分の存在証明のために走る。でも、高橋は好きだから走る」
「有森は先生なのね。理詰めで攻めて、自分が納得しないと気が済まない。だから、ガブみたいな駄目な男と相性がいい。私が面倒を見てあげなければ……と思えるから」
正確なところは忘れてしまったけれど、そんな内容のインタビュー記事が載っていて、とても納得してしまった。有森は小出監督じゃなくてもよかったんじゃないかな。自分で決めていけるタイプ。小出監督は、有森の「思い込み」が間違った方向に向かったときだけ修正してやればよかった。コーチと選手という意味では、相性が悪かっただろうと思う。
それに比べ、Qちゃんと小出監督は、ほんとに相性抜群なんだろうな。Qちゃんは、年上男が好きなんだよね、きっと。僕の従妹(年下)に、明治生まれの男性と結婚して、幸せになっている女性がいるけれど、それに似ている。
いやもう、理屈はともかく、Qちゃんくらい図抜けて強いと、気持ちがいい。全盛時の中山だって、ここまで強くはなかった。なんかもう、宇宙人vs地球人のレースを見ている感じ。シモンやロルーペは、強いんだけれどまだまだ地球人レベル。Qちゃんは人間離れしている。
Qちゃんファンをやるのは楽しいなあ。なんだか、仮面ライダーとかガメラのファンをやっているのと同じで、単純に楽しめる。最後は主役が勝つというのが分かっているというか……。ほんと、今日のレースなんか、シモンが気の毒になってしまった。
最後に、やはり陸連には苦言を呈したい。
これだけの特別な存在である高橋尚子という選手が、もう少しで代表になれないところだった。弘山にしても高橋にしても、とてつもなく不利な条件で選考レースに臨まなければならなかった。そう仕向けた陸連の責任は、高橋の優勝で帳消しになるわけではない。
「たら」「れば」は虚しいけれど、弘山が加わっていたら、多分、銀か銅に絡んできただろう。山口ももっとのびのび走れたかもしれない。まあ、どんなに理不尽な選考会であっても、圧倒的な強さを示せなかったのだからしょうがないと言われればそれまでなんだけれど、高橋尚子以外の選手はみんな人間レベルで、ぎりぎりの戦いをしているんだから、きっちり平等のチャンスを与えなければ。
「ちゃんと見てるよ」番外編1で、僕はこう書いた。
<高橋の驚異的な強さは世界史的なものであり、故障していない限りはまず間違いなく優勝できる。弘山は安定感があり、不調でもそれなりに結果を出してきた選手。山口はこの3人の中ではもっとも不確定要素が強く、アトランタの小鴨由水のようにこける確率も高いが、東京での走りが再現できればメダルに絡んでくることは間違いない。
市橋は高速レースになったとき、ついていけるだけの力がまだない。このままでは、世論によるプレッシャーで、市橋本人をもつぶしてしまう可能性が高い。もっとも、有森裕子のように、悪役パワーを自分に取り入れ、さらに強くなってしぶとく銅メダルあたりにひっかかってくる可能性もあるだろうが、それはどっちかというと「人間ドラマ」というか「成り上がりドラマ」を見ているようで、スポーツ本来のドラマではないような気がする。>
思えば、高橋の図抜けた強さは、市橋や陸連をも救ったのかもしれない。
来年あたり、高橋と弘山が国際レースでデッドヒートを繰り広げるのを見てみたい。シドニーでそれが見られるはずだったのに、残念。
(2000/09/24)
★興味深い資料★
10位以内の選手の、ラスト2.195kmの所要時間順位 |
ラストスパート度 | 選手(国名) | タイム | 40km時点での順位→最終成績 |
1位 | ビクタギロワ(ロシア) | 7分11秒 | 7位→5位(2h26'33) |
2位 | シモン(ルーマニア) | 7分35秒 | 2位→2位(2h23'22) |
3位 | 山口衛里(日本) | 7分43秒 | 8位→7位(2h27'07) |
4位 | チェプシュンバ(ケニア) | 7分49秒 | 3位→3位(2h24'45) |
5位 | ロバ(エチオピア) | 7分50秒 | 10位→9位(2h27'38) |
6位 | アレム(エチオピア) | 7分54秒 | 6位→6位(2h26'54) |
7位 | 高橋尚子(日本) | 7分55秒 | 1位→1位(2h23'14) |
8位 | ワンジロ(ケニア) | 7分57秒 | 4位→4位(2h26'17) |
9位 | ハン(北朝鮮) | 8分09秒 | 5位→8位(2h27'07) |
10位 | レン(中国) | 8分17秒 | 9位→10位(2h27'55) |
参考 | ロルーペ(ケニア) | 9分04秒 | 12位→13位(2h29'45) |
参考 | 市橋有里(日本) | 8分59秒 | 13位→15位(2h30'34) |
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