狛犬ネット特別編

 京都西明寺「阿育王石柱」の謎を追う

インドの国章
上の画像を見てなんだか分かる人は、かなり地理や雑学に強い人だろう。
これはインドの「国章」である。
国章とは、国家を象徴する紋章や徽章のこと。
⇒ここに、各国の国章一覧というのがある。
いわゆる菊の御紋日本では正式に国章というものは制定されていないけれど、皇室の家紋である「十六八重表菊」──いわゆる「菊の御紋」が、国章に準じた扱いを受けているそうだ。
パスポートの表紙にも印刷されているが、あれはよく見ると「八重」ではなく「一重」になっている。皇室の家紋そのものを一般人が使うなど畏れ多いからだろう。

で、今回の話題は国章そのものではなく、京都西明寺にある「阿育王石塔」と呼ばれる石造りの石柱である。

石川町の吉田さんから、「小松寅吉が生前、地元の名家に宛てた葉書が見つかった」と連絡があった。
寅吉の葉書
宛先は石川町の溝井伊右衛門。溝井家は石都都古和気神社御仮屋そばにある家で、塀越しに、いかにも寅吉工房で造ったと思われる燈籠が見えていたので、以前、吉田さんと一緒にお邪魔して、その燈籠の写真を撮らせてもらったことがある。
その溝井家の当主宛に、寅吉が葉書を出しているのだが、これが京都の絵葉書で、差出人のところには「京都府槇尾山西明寺方ニテ 小松寅吉」とある。
消印は「1.11.7」。明治元年はまだ郵便が始まっていないし、昭和元年には寅吉はもう生きていないので、これは大正元年11月7日ということになる。
その前後の寅吉・和平年表を確認すると、


明治42(1909)年4月、寅吉65歳 棚倉町堤 長慶寺墓地長田家の墓。「福貴作石工 小松布孝  布行」
明治45(1912)年7月、寅吉68歳 須賀川市旭宮神社の恵比寿像。「石川郡浅川村大字福貴作  小松布孝」

        >>>大正元年はここ<<<

大正2(1913)年3月、寅吉69歳、和平31歳 長福院の毘沙門天像。「福貴作 小松孝布」
大正4(1915)年2月22日、小松寅吉布孝没(行年72歳)。このとき和平は33歳


……となる。
長福院の毘沙門天像の銘が「小松布孝」ではなく「孝布」と、わざと逆に彫られているのはなぜなのか? について、僕なりの推理を『新版・神の鑿』でも披露している。
この毘沙門天像はほとんど和平が彫ったために、寅吉は自分の名前をそのまま彫ることをよしとしなかったのだろう、というものだ。
さらには、もしかすると、和平に「孝布」という名前を継いでほしいという願いも込められていたのではないか……と、一歩進んだ推理もしてみた。
この毘沙門天像が建立されたわずか4か月前に、寅吉は京都西明寺に滞在していたことが、今回、葉書の消印ではっきりした。
なぜ西明寺にいたのか?
答えは、↓これである。
京都西明寺の阿育王石塔
(写真転載:「京都を歩くアルバム」より)

これは西明寺境内に寅吉が残した「阿育王石塔」なるものだ。
寅吉が「阿育王石塔という作品を残しているらしい」という話は、以前から聞いていた。小松家にはその写真も残っている。しかし、実物がどこにあるのかは、寅吉を追いかけている石川町地元の研究者たちも分からないままだった。
 
↑小松家に残されている「阿育王石塔」の写真


「阿育王石塔」とはなんなのか? 本当にそんなものがあったのか?
今回の葉書で「槙尾山西明寺」という地名が分かり、改めてネットを検索しまくったところ、確かに京都の西明寺にあることが分かった。
それにしても、明治末期、最晩年の寅吉が遠く京都の地まで出向いて造った作品があったとは驚きだ。
どういう経緯でこれを彫ることになったのか……。

で、改めてこの「阿育王石塔」を見ると、石柱の上に4頭の馬が四方を向いて背中合わせに乗っている。こういうものは他に見たことがない。
そもそも「阿育王石塔」と称しているが、阿育王石塔とはなんなのか?


阿育王はアショーカ王のこと。
アショーカ王は、インド・マウリヤ朝3代目の君主(在位紀元前268~232年頃)。インド、ネパール、アフガニスタン東部まで広範囲に支配した王で、様々な伝説がある。
兄弟たちを殺した末に王位についたとか、アショーカ王の軍が通った土地は殺戮の限りを尽くされ草木一本残らなかったといった話もあるらしい。
実際にはそれらは誇張されたものであるらしいのだが、はっきりしているのは、王になった後には熱心な仏教信者となり、自らの武力制圧の過去を悔い、武力による統治から法(ダルマ)による統治に改めたということ。
アショーカ王は、ダルマ(人間の守るべき普遍的な理法)の理念を広めるため、ブッダゆかりの聖地に石塔を建てて、そこにサンスクリット語やギリシャ語でメッセージを刻んだ。
これらは「アショーカ・ピラーズ(アショーカ王の石柱群)」と呼ばれ、30本以上あったらしい。現在、実物が残っているのは十数本。(ちなみに、オーパーツで有名な「デリーの錆びない鉄柱」も「アショーカ・ピラー」と呼ばれているが、アショーカ王の時代とは合わないそうで、これはまったく別物と考えたほうがいい)
アショーカ・ピラーズの中で最も有名なのはネパールのルンビニにある石柱だ。
1896(明治29)年、ドイツ人の考古学者フューラーによって発見された。柱にはブラーフミー文字で「神々に愛でられしアショーカ王が即位20年の年にこの地を訪れ石柱を立てた」「釈尊の生誕地であるこの村は減税され8分の1の納税で許される」などと刻まれていた。
この石柱が発見されたことで、ここがブッダの生誕地であること、ブッダは伝説上の存在ではなく実在の人物だったことなどが証明されたとされている。歴史的にそれほど重要な石柱だったわけだ。
ルンビニーのアショーカ王石柱
ルンビニのアショーカ王石柱。(Wiki Commonsより)

このルンビニの石柱は、建立当時は4本あって、柱の上には馬の像があったと伝えられているのだが、馬の像は見つかっていない。(柱が4本でその上に1頭ずつの馬だったのか、柱は1本で、その上に馬の像が4体だったのか、今のところはっきり確認できていない)
石柱には、プラーフミー文字で書かれた碑文・法勅文が5行にわたって残されていて、内容は、
神々に愛せられ温容ある王(阿育王)は、即位二十年後、自らここに来り親しく参拝した。ここで仏陀・釈迦牟尼が生誕せられたからである。お釈迦様がここでお生まれになったことを記念し、石で馬像を造り、石柱を造立する。ここ、ルンピニー村は聖地であるから、租税を免除せられる。今後は生産高の8分の1のみを納めればよいこととする。
……というもの。
中国の高僧・玄奘(げんじょう。602~664年3月7日。「西遊記」の主人公「三蔵法師」のモデルとして有名)もルンビニを訪れていて、旅の記録を綴った『大唐西域記』(646年)には、
「大石柱があり、上に馬の像が乗っている。阿育王の建立されたものである。しかし、後に落雷のため、柱は折れて、地に横たわっている」
と記されている。
これらの資料から、柱頭部に馬の像が乗っていたことは間違いないが、その馬の像は発掘時には見つからなかった。(後に、1977年からの大規模発掘調査で、たてがみ部分の破片が見つかった)

アショーカ王石柱はその後、各地で続々と発見されるが、ほとんど壊れていて、柱頭部に乗った動物の像が残っているものは数えるほどしかない。有名なのはヴァイシャリーの石柱やサルナートの石柱で、柱頭部の獅子像がしっかり残っている。
ヴァイシャリーのアショーカピラー
ヴァイシャリーのアショーカピラー (c)Rajeev kumar (Wiki Media Commons)

ヴァイシャリーの石柱は、↑このように、柱の上には獅子が1頭乗っている。これが4頭、背中合わせに乗っていたのがサルナートの石柱だ。
全体で13m近い高さがあったとされる石柱は折れてしまい、現在は下のほうしか残っていない。しかし、てっぺんの4頭の獅子像は完全に近い状態で発掘されていて、サルナート考古学博物館に展示されている。

これがまさに、冒頭で紹介したインドの国章のもとなのだ。
インドの紙幣にも図柄として使われているので、インド人なら知らない人はいない。↓

100ルピー紙幣に使われているサルナートのアショーカ王石柱の柱頭図柄↑

サルナート石柱の柱頭
サルナート石柱の柱頭(サルナート博物館蔵)

サルナートに現存するアショーカ王石柱の下部
(写真撮影・転載許可:河合哲雄さん http://kawai51.cool.ne.jp/i-a'soka.html


この石柱の柱頭部はインドの国章となり、紙幣の絵柄にもなったことで有名になり、レプリカが世界中に存在する。日本にも立正大学正門の階段上のレプリカや、青蓮寺(桐生市)墓地の阿育王石塔など、いくつか存在している。
立正大学のWEBサイトにある解説によれば、サルナート(鹿野苑)は、ブッダが初めて説法をした場所と伝えられている場所で、石柱は1904年(明治37年)に発掘された。
柱頭部に乗っていたこの彫刻は、高さが150センチ。獅子の下には4つの法輪、獅子、象、牡牛、馬が浮彫りにされている。

さてさて、西明寺にある「阿育王石柱」をよく見ると、台座部分がこのサルナートの石柱柱頭の彫刻とそっくりだ。その上にあるのが馬の像であり、獅子像ではないところが違っているが、背中合わせに4頭がひとつに彫られている例は他にないので、サルナートの石柱がモデルになっていることは間違いない。

↑サルナートの石柱柱頭の台座部分


↑寅吉が彫った「阿育王石塔」の最上部彫刻台座部分


↑台座から上の拡大↑
(写真転載:「京都を歩くアルバム」
サルナートの石柱柱頭部が発掘されたのは1904年(明治37年)だから、寅吉が西明寺の阿育王石塔を造るほんの数年前のことだ。
寅吉はどうやってこのサルナートのアショーカ王石柱を見ることができたのだろうか。
依頼者が寅吉にスケッチか写真を提示したのだろうが、明治時代のことだから、写真だったとは考えづらい。スケッチだったと思われるが、相当丹念に描き込んだものでなければ、台座のレリーフが何かというところまで読み取れない。
驚嘆すべきは、このサルナートの石柱柱頭のレプリカではなく、獅子像を馬の像に置き換えて制作したことだ。
サルナートの石柱を見た上で、そこからさらに想像をたくましくして、ブッダ生誕の地であるルンビニの石柱柱頭部(馬の像だったと伝えられている)を自分の手で再現しようとしたのである。
「どうせ造るなら、サルナートの完全コピーではなく、お釈迦様生誕の聖地にあったという馬の像が乗った石柱を建てましょう」
……と提言したのが、依頼者だったか寅吉だったかは分からない。しかし、そういう経緯で生まれたのが西明寺の阿育王石塔だった……これはほぼ間違いないことだろう。でなければ、こんな不思議なものが明治末期に突然造られるわけがないからだ。
寅吉の気骨を知っている我々?としては、このアイデアが寅吉自身のものだったと思いたい。
「お釈迦様の生誕地にアショーカ王が建てたという石塔の全体像を、今はもう誰も見ることができない。よし、それなら俺が再現してやろうじゃないか。小松寅吉、石工人生最後の仕事にふさわしいぜ……ふっふっふ……」

……そういうことなのか? う~~ん、70を目前にして、なんという想像力、チャレンジ精神だろう。
そう、この想像力と、死ぬまで挑戦し続ける心こそが寅吉の真骨頂。
いやあ、かっこいいなあ、寅吉は。
(2011年1月25日記、2月9日改稿)

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