このままだと、精神状態がどんどん落ち込むのが怖い。
村の状態がまさにそうで、放射線量は大したことがないのだが、人々の心が完全に壊れてしまった。
先日の植樹祭のとき、それを痛感した。
周りの人たちが村のことを気にかけてくれて、実際に金や時間、エネルギーを割いて動いてくれているのに、当の村がしら~っとしている。そこにいる僕も、異分子として敬遠され、頑張る場がない。
これではせっかく村にいても、村のために何かをやれない。これから先、どんどん壊されていく村を間近に見ながら、ただ家の周りの自然を眺めて毎日暮らしていても、意味のある仕事はできないだろう。
そういう思いがこのところずっとあった。
一方で、村の外では、僕を呼んでくれる人たちがいて、価値観を共有する喜びがある。12月には白河市で狛犬ツアーのガイド役に呼ばれている。3.11以降ちりぢりになってしまった自然農法やパーマカルチャーなどを一生のテーマにして阿武隈に集まってきていた人たちとも、今まで以上に強力なネットワークを形成して、いろいろ活動できそうな気がする。
川内村がもう活動拠点にはなりえないのではないかと決定的に思ったのは、先日の「復活の米の顛末」事件だ。
この日記でも何度か紹介してきた秋元美誉さんの田圃で、10月2日に収穫が行われた。
よしたかさんは今年、「30km圏内は一律米の作付け禁止」という国と県からの指示に抗って「それでは自分の田圃で穫れた米にどれだけの放射性物質が含まれているのか分からない。出荷するためではなく、自分でそれを調べるために作付けする」と言って、田圃1枚だけ作付けをした。
このことは、どんよりした空気に包まれたままの川内村で、唯一希望のシンボルだった。
メディアも何度も取り上げ、報じた。
あえて田1枚コメ作り 放射能の影響「自ら試す」 川内(河北新報、5月23日)
「調べなきゃ分かんねえ」 コメ作って食べる農家の意地(朝日新聞、9月29日)
万感の稲刈り25アール 準備区域解除の福島・川内(河北新報、10月3日)
コメ農家「放射能との闘い」 福島30キロ圏(神戸新聞、10月4日)
しかし、よしたかさんのこの願いは叶えられなかった。
収穫の後、すぐに県と村から人が来て、収穫した米をその場で全量廃棄させたのだ。
自分の手で民間検査機関に出して調べたいというよしたかさんの希望も叶えられず、米は一粒たりともよしたかさんの手元には残されなかった。
一部を「しかるべき機関で検査する」と役所が持ち帰っただけ。
詳しくは、
「自然山通信ニシマキのかわうち通信」(10月5日『復活の米の末路』)
に出ている。
当のよしたかさんはもちろん相当なショックを受けたが、ずっと見守ってきた僕たちもショックだった。
これで完全に踏ん切りがついた。
この村にいてなんとか道を見つけようとしても、これでは頑張りようがないではないか。
明らかに間違った指示・命令であっても、国の言いなり、県の言いなり。村は抵抗さえ示さない。
怒りを通り越して、ただただ絶望した。
今後の活動拠点を考え直す必要がある。その思いを強くした。
災害の被災者、被災地が復興をかけて頑張っていますよ、というような図を、メディアは示したがる。しかし、そんな単純な構図ではないのだ。