11/01/25

 小松寅吉の最後の作品か? 京都西明寺の阿育王石柱

インドの国章
上の画像を見てなんだか分かる人は、かなり地理や雑学に強い人だろう。
これはインドの「国章」であります。
国章とは、国家を象徴する紋章や徽章のこと。
⇒ここに、各国の国章一覧というのがある。
いわゆる菊の御紋日本では正式に国章というものは制定されていないけれど、皇室の家紋である「十六八重表菊」──いわゆる「菊の御紋」が、国章に準じた扱いを受けているそうだ。
パスポートの表紙にも印刷されているが、あれはよく見ると「八重」ではなく「一重」になっている。皇室の家紋そのものを一般人が使うなど畏れ多いからだろう。

で、今日の話題は国章ではなく、ここではおなじみ?の小松寅吉である。

石川町の吉田さんから、「寅吉が生前、地元の名家に宛てた葉書が見つかった」と連絡があった。
寅吉の葉書
宛先は石川町の溝井伊右衛門。溝井家は石都都古和気神社御仮屋そばにある家で、塀越しに、いかにも寅吉工房で造ったと思われる燈籠が見えていたので、以前、吉田さんと一緒にお邪魔して、その燈籠の写真を撮らせてもらったことがある。
その溝井家の当主宛に、寅吉が葉書を出しているのだが、これが京都の絵葉書で、差出人のところには「京都府槇尾山西明寺方ニテ 小松寅吉」とある。
消印は「1.11.7」とある。明治元年はまだ郵便が始まっていないし、昭和元年には寅吉はもう生きていないので、これは大正元年11月7日ということになる。
その前後の寅吉・和平年表を確認すると、


明治42(1909)年4月、寅吉65歳 棚倉町堤 長慶寺墓地長田家の墓。「福貴作石工 小松布孝  布行」
明治45(1912)年7月、寅吉68歳 須賀川市旭宮神社の恵比寿像。「石川郡浅川村大字福貴作  小松布孝」

        >>>大正元年はここ<<<

大正2(1913)年3月、寅吉69歳、和平31歳 長福院の毘沙門天像。「福貴作 小松孝布」
大正4(1915)年2月22日、小松寅吉布孝没(行年72歳)。このとき和平は33歳


……となる。
長福院の毘沙門天像の銘が「小松布孝」ではなく「孝布」と、わざと逆に彫られているのはなぜなのか? について、僕なりの推理を『新版・神の鑿』でも披露している。
これはほとんど和平が彫ったために、寅吉は自分の名前をそのまま彫ることをよしとしなかったのだろう、というものだ。
もしかすると、和平に「孝布」という名前を継いでほしいという願いも込められていたのではないか……と、一歩進んだ推理もしてみた。
この毘沙門天像の建立年月日のわずか4か月前に寅吉は京都西明寺に滞在していたことが、今回、葉書の消印ではっきりした。
なぜ西明寺にいたのか?
答えは、↓これである。
京都西明寺の阿育王石塔
(写真転載:「京都を歩くアルバム」より)

これは西明寺境内に寅吉が残した「阿育王石塔」なるものだ。
寅吉が「阿育王石塔という作品を残しているらしい」という話は、以前から聞いていたが、寅吉を追いかけている石川町地元の研究者たちも、その作品を正確に見つけることができないでいた。
「阿育王石塔」とはなんなのか? 本当にそんなものがあったのか? 一時、「千葉にあるらしい」などとも言われていたが、今回の葉書で「槙尾山西明寺」という地名が分かり、改めてネットを検索しまくったところ、確かに京都の西明寺にあることが分かった。
それにしても、明治末期、最晩年の寅吉が遠く京都の地まで出向いて造った作品があったとは驚きだ。
どういう経緯でこれを彫ることになったのか……。

で、改めてこの「阿育王石塔」を見ると、石柱の上に4頭の馬が四方を向いて背中合わせに乗っている。こういうものは他に見たことがない。
そもそも「阿育王石塔」と称しているが、阿育王石塔とはなんなのか?


阿育王はアショーカ王のこと。
アショーカ王は、インド・マウリヤ朝3代目の君主(在位紀元前268〜232年頃)。インド、ネパール、アフガニスタン東部まで広範囲に支配した王で、様々な伝説がある。
兄弟たちを殺した末に王位についたとか、アショーカ王の軍が通った土地は殺戮の限りを尽くされ草木一本残らなかったといった話もあるらしい。
実際にはそれらは誇張されたものであるらしいのだが、はっきりしているのは、王になった後には熱心な仏教信者となり、自らの武力制圧の過去を悔い、武力による統治から法(ダルマ)による統治に改めたということ。
アショーカ王は、ダルマ(人間の守るべき普遍的な理法)の理念を広めるため、ブッダゆかりの聖地に石塔を建てて、そこにサンスクリット語やギリシャ語でメッセージを刻んだ。
これらは「アショーカ・ピラーズ(アショーカ王の石柱群)」と呼ばれ、分かっているだけで30本ほど存在する。(ちなみに、オーパーツで有名な「デリーの錆びない鉄柱」も「アショーカ・ピラー」と呼ばれているが、アショーカ王の時代とは合わないそうで、これはまったく別物と考えたほうがいい)
アショーカ・ピラーズの中で最も有名なのはネパールのルンビニにある石柱だ。
1896(明治29)年、ドイツ人の考古学者フューラーによって発見された。柱にはブラーフミー文字で「神々に愛でられしアショーカ王が即位20年の年にこの地を訪れ石柱を立てた」「釈尊の生誕地であるこの村は減税され8分の1の納税で許される」などと刻まれていた。
この石柱が発見されたことで、ここがブッダの生誕地であること、ブッダは伝説上の存在ではなく実在の人物だったことなどが証明されたとされている。歴史的にそれほど重要な石柱だったわけだ。
ルンビニーのアショーカ王石柱
ルンビニのアショーカ王石柱。(Wiki Commonsより)

このルンビニの石柱は、建立当時は4本あって、柱の上には馬の像があったと伝えられているのだが、馬の像は見つかっていない。
中国の高僧・玄奘(げんじょう。602〜664年3月7日)もルンビニを訪れていて、この柱に雷が落ちて3つに折れたことなどを記録しているそうだ。

ルンビニの石柱は、今では柱部分しか残っておらず、最上部は喪失している。しかし、後に見つかったヴァイシャリーの石柱やサルナートの石柱は、最上部の彫刻が残っている。
ヴァイシャリーのアショーカピラー
ヴァイシャリーのアショーカピラー (c)Rajeev kumar (Wiki Media Commons)

ヴァイシャリーの石柱は、↑このように、柱の上には獅子が1頭乗っている。これが4頭、背中合わせに乗っていたのがサルナートの石柱だ。
全体で13m近い高さがあったとされる石柱は折れてしまい、現在は下のほうしか残っていない。しかし、てっぺんの4頭の獅子像は完全に近い状態で発掘されていて、サルナート考古学博物館に展示されている。

これがまさに、冒頭で紹介したインドの国章のもとなのだ。
インドの紙幣にも図柄として使われているので、インド人なら知らない人はいない。↓

100ルピー紙幣に使われているサルナートのアショーカ王石柱の柱頭図柄↑

サルナート石柱の柱頭
サルナート石柱の柱頭(サルナート博物館蔵)

サルナートに現存するアショーカ王石柱の下部
(写真撮影・転載許可:河合哲雄さん http://kawai51.cool.ne.jp/i-a'soka.html




この石柱のレプリカが日本にもある。立正大学正門の階段上にあるのがそれだ。

立正大学のWEBサイトにある解説によれば、サルナート(鹿野苑)は、ブッダが初めて説法をした場所と伝えられている場所で、石柱は1904年(明治37年)に発掘された。
てっぺんに乗っていたこの彫刻は、高さが150センチ。獅子の下には4つの法輪、獅子、象、牡牛、馬が浮彫りにされている。

寅吉が西明寺に建立した「阿育王石柱」をよく見ると、台座部分がこのサルナートの石柱柱頭の彫刻とそっくりだ。

↑サルナートの石柱柱頭の台座部分


↑寅吉が彫った「阿育王石塔」の最上部彫刻台座部分


↑台座から上の拡大↑
(写真転載:「京都を歩くアルバム」
サルナートの石柱柱頭部が発掘されたのは1904年(明治37年)だから、寅吉が西明寺の阿育王石塔を造るほんの数年前のことだ。寅吉はこのニュースを新聞記事か何かで知ったのだろうか。あるいは西明寺の阿育王石塔を依頼した住職か誰かが資料を持っていて、寅吉に提示したのかもしれない。いずれにせよ、明治時代の海外でのニュースだから、寅吉が目にすることができた写真は、粒子の粗い、小さなものだったはずだ。
そこから想像をたくましくして、今でも見つかっていない(つまり今生きている人間の誰ひとり見たことがない)ブッダ生誕の地であるルンビニの石柱柱頭部(馬の像だったと伝えられている)を自分の手で再現しようとしたのがこの西明寺に残された「阿育王石塔」ではないだろうか。
……これはほぼ間違いないことだと思う。でなければ、こんなものが明治から大正にかけての時期、突然造られるわけがないからだ。

まとめてみよう。
1896(明治29)年、ネパールのルンビニという町でアショーカ王が建てた石柱が発見され、そこがブッダ生誕の地であると証明された。しかし、残っているのは柱だけで、柱頭部がどうなっていたのかは分からなかった。石柱はもともと4本あって、上には馬の像が乗っていたとも伝えられている。
その後、1904年(明治37年)にサルナートで背中合わせの4頭の獅子が乗っている別の石塔が発見された。
これらのニュースから、寅吉は、馬が乗っていたというルンビニの石柱の全体像を自分なりに想像してみた。
「お釈迦様の生誕地にアショーカ王が建てたという石塔の全体像を、今はもう誰も見ることができない。よし、それなら俺が再現してやろうじゃないか。小松寅吉、石工人生最後の仕事にふさわしいぜ……ふっふっふ……」

……そういうことなのか? う〜〜ん、70を目前にして、なんという想像力、チャレンジ精神だろう。
そう、この想像力と、死ぬまで挑戦し続ける心こそが寅吉の真骨頂。

死ぬ間際に、寅吉が石工魂を結集して造り上げたのがこの作品だと分かったので、これは近いうち、なんとしてでも京都まで行かなければ……と、心に決めた私なのであった。
いやあ、かっこいいなあ、寅吉は。


一つ前の日記へ一つ前へ    abukuma.us HOME    takuki.com HOME      次の日記へ次の日記へ

たくき よしみつの本 出版リストと購入先へのリンク  デジカメと写真撮影術のことならここへ! ガバサク道場

  たくき よしみつの「本」 電子配信開始

狛犬かがみ - A Complete Guide to Komainu

狛犬かがみ A Complete Guide to Komainu

(バナナブックス、1700円税込)……  オールカラー、日英両国語対応、画像収録400点以上という狛犬本の決定版。25年以上かけて撮影した狛犬たちを眺めるだけでも文句なく面白い。学術的にも、狛犬芸術を初めて体系的に解説した貴重な書。
アマゾンコムで注文で注文


HOMEへ 狛犬ネット入口目次へ




  タヌパックスタジオ本館   ギターデュオKAMUNA   あぶくま狛犬札所60番巡り   日本に巨大風車はいらない 風力発電事業という詐欺と暴力