昨夜はついにシロもしんちゃんも来なかった。
あまりの寒さに死んでしまったのだろうか? 落ち着かず、風呂にも入れなかった。
朝になっても外のご飯は減っていない。水入れはカチンコチン。寒すぎて動けないのかなあ。
一昨日の夜の、あの恨みがましい目で家の中を覗き込んでいるのが最後の姿……なんてことになると嫌だなあ。
今朝は変な夢を見ていた。
明け方見る夢の定番は、コンサートがうまくいかないという夢。ギターの弦が切れたり、歌詞を忘れたり、聴衆が入っていなかったり、聴衆が待っているのに準備ができていなかったり……とにかくそういう夢。これは週に1度くらいは見る。
あとは、電車に乗っていてなかなか家に帰れないという夢もよく見る。
夢の中でのみ知っている光景とか路線図みたいなものもある。現実世界ではそんなものはないのに、夢の中では、ああ、またあそこだ、と分かっている。
今朝見ていた夢はそういうのとはまったく違っていた。
なんと、小沢一郎と話をしているのだ。
僕が小沢一郎に、
「菅さんが30年くらい前に上智大学のソフィア祭に呼ばれてやってきたことがありましてね……」
なんて話をしている。
これは実話で、卒業後、一度だけ覗いたことのあるソフィア祭(上智大学の学園祭)で、どこかのサークルだかがシンポジウムみたいなものを企画したらしくて、廊下で呼び込みをしていた。
教室を覗くと、教壇には若かりし菅直人氏(当時は社会民主連合から衆議院議員として初当選した直後)が、少し苛立った顔で立っていた。集まったのは最前列の席にパラパラと数人だけ。人が集まらないのでシンポジウムが始められず、企画したグループ(学生)が、おずおずと教室の外で廊下を通る人たちに声をかけていたのだった。
あまりの気まずい空気にビビって、僕は素通りし、行こうとしていた芸能山城組上智支部の部屋に向かったのだが、今、あのときのことをとても後悔している。芸能山城組でケチャのてほどきを受けるよりも、あの気まずさ200%の教室で菅直人氏と討論したほうがずっと人生の想い出になっただろうと。
……と、そんなことを、夢の中で僕は小沢一郎に話しているのだった。
なぜか小沢一郎は取り巻きと一緒に歩いていて、僕は彼の横を一緒に歩きながら話している。
小沢一郎は時折頷きながら僕の話をちゃんと聴いている。
その前置きが終わって、僕は小沢氏にこう言った。
「要するに菅さんは、生まれ持った素質と、性格というか人間性が噛み合っていないんです」
それを聞いた小沢一郎はハタと手を打ち「その通り!」と相づちを打った。
「まったくそうなんだよ!!」
その後、僕と小沢氏を含めた一行は、なぜか地下鉄の駅入り口に来る。
そこで小沢氏は僕と別れ、取り巻きと一緒に地下鉄のホームへと降りていくのだった……。
……なんなんでしょね、この夢は。(地下鉄に乗る小沢一郎を見てみたい)
夢の中で僕が言いたかったことはこういうことだ。
菅直人という人は、市川房枝という女性解放運動で昭和史に名を残す市民運動家の参議院選挙(1974年)を応援するスタッフとして働いたことがきっかけで、2年後(1976年)、衆議院議員総選挙に無所属で出馬して落選。その後、江田三郎に誘われ社会市民連合に参加し、政治の世界に入っていった人だ。
1946年10月生まれだから、僕より8年半年長。彼が市川房枝氏の選挙を応援していた1974年は、僕は大学に入った年。衆議院選挙に落選した1976年は、僕は大学で失恋を繰り返し、恨みがましい歌を大量生産していた。
そうした若い時代の経歴を、総理になった後の演説でも、一種感慨深げに取り入れて語っていたが、どうも彼の生来の性格は、権力欲、名誉欲がすごく強いように見える。「いつかは総理に」という願望が、自民党系の代議士以上に強かったのではないだろうか。
この、理想主義と権力・名誉志向。一見相反する要素が彼の中では一生ぶつかり合っている。
それはまあいいのだけれど、総理大臣の職ともなれば、その人物の資質に日本に暮らすすべての人間が影響を受ける。
その結果が、今の「残念な民主党」「残念なニッポン」である。
総理大臣になるには、果てしない権力闘争を乗り越えなければならないが、その間、本当の勉強はできなくなる。彼の今の知識は、取り巻きから吹き込まれたインチキ臭いブリーフィングや、底の浅い新聞記事の切り抜き集をカバーするのに精一杯だろう。
彼の勉強不足、誤認識が、そのまま民主党の浅薄さになっている。
かといって小沢一郎のようなヤクザ体質、パワーゲームの達人に国の舵取りを任せればうまくいくのかといえば、そうは思えない。それで済んでいた時代はとっくに終わっている。
なにより、アメリカ(的な世界支配者グループ)や、したたかな中国と、パワーゲームで渡り合っても、返り討ちに遭うだけだということは近代史が物語っている。
本当は、周到でタフなヤクザ体質小沢首相と、権力欲を捨ててひたすら情報収集して勉強を続ける菅直人のようなブレーンという組み合わせであればいいのだが、そうならないところに日本の悲劇がある。
話変わって、昨夜、BSベストセレクションという企画で、2005年に放送された『生き抜く 小野田寛郎』というのを見た。2007年8月15日に再放送されていて、今月16日が再々放送だったらしい。
実に興味深い番組だった。
小野田さんという人物が、ものすごいインテリで、こう言っては語弊があるが、横井さんとはまったくレベルが違う人物だということは、多くの人が帰国直後の言動で感じていたとは思うのだが、この番組で、さらによく分かった。
小野田さんは、陸軍中野学校でスパイ教育を受けて終戦間際の戦地に派遣されたが、戦争がなければ、あるいは、戦争をうまく切り抜けていれば、エリート商社マンとか実業家として成功していただろう。
自分でもそう言っているくらいで、自分の人生を成功させる才覚は大したものだ。
それが、戦争によってあんな人生を歩むことになる。普通では考えられないくらい、しつこく潜伏し続けたのは、彼の「非凡さ」ゆえでもあった。
そうしたことも全部彼は分かっていて、実に正確に自分の人生を分析してみせる。分析した上で、淡々とその運命を受け入れ、今よりもマシな人生をいかに築くかを考えている。
菅直人が戦争に行っていたらどうだったのだろうか、あるいは小沢一郎が……。
そんなことを考えていると、ああ、俺は生まれてから今まで戦争に巻き込まれなかっただけで、十分に幸せなんだなあと思う。
平凡な結論に聞こえるかもしれないが、ちょっと違う。
小野田さんが言うように「生まれた時代、巻き込まれた運命によって人生が変わっていくのは仕方がない。その中でどう生き抜くか」ということだ。
現代は大東亜戦争前に似ている。これは間違いない。
世の中がよくなっていく要素はなに一つない。壊れていく、破滅に向かうことは阻止できないだろう。
それでも今まだ自分が自暴自棄にならず、虚無の沼にどっぷり沈み込む寸前で、何かをし続けられるのは、この「生まれた時代、巻き込まれた運命によって人生が変わっていくのは仕方がない。その中でどう生き抜くか」という心境になっているからだ。
どんなに可能性が小さくても、これから先の展望が暗くても、今できることをやるしかない。いちいち悩んでいても仕方がない。これはまさに、小野田さんが繰り返し言っていたことだ。
自分が動いて社会が変わるわけではない。変わると思うのは幻想だ。
社会を嘆く文章を量産して、ちょっとくらい本が売れても仕方がない。それなら、当面金にならなくても、自分のやりたいこと、やるべきことを、続けられるだけ続けるほうがいい。
そのことに対して、迷いがなくなってきた。
どんなにじり貧でも、今の僕は幸せだと思う。
丸一日以上シロとしんちゃんが来なかったが、夕方、まずしんちゃんがやってきた。
猫缶をあげる。
相変わらず、手を出すとネコパンチしてくる。頭悪いね、というか、やっぱり心が病んでるね、しんちゃんは。
その後、シロもようやく来た。
よかったよかった。
ご飯を食べた後、家に入ってきてくつろぐ。
いいのかな? という「?」がまだ頭の中にあるらしいが、ここでゆっくりできたら最高だなあと考えていることはよく分かる。
テレビを見ている僕の足下で寝始めた。
手?がうにうにと動くのがとても面白い。肉球フェチの人はたまらんだろうな、これ。