追悼ゴロ(3)

1年半経った2000年12月。ゴロが急に食べなくなった。
最初は何が原因なのか分からず、ペレットの銘柄を替えたり、いろいろしていたが、食べないまま3週間経過。普通なら死んでしまう期間、水だけ飲んで生きていた。
それでも獣医さんに連れて行くことを躊躇っていたのは、過去、タヌやシロ(ゴロの前の黒いウサギ)のときに、近所のいろいろな獣医さんを経験した結果、あまりいい印象を持っていなかったからだった。
後から考えても、あの処置はまずかったんじゃないか、とか、セオリー通りだとしても、あんなに乱暴な接し方では怯えてますます具合が悪くなるんじゃないか、とか、連れて行かないほうがよかったと思うような経験が続いていた。
ネットで調べて「あなたがウサギに出来ること」あなたがウサギにできることというサイトを見つけた。
サイトの主催者は、北陸方面の動物病院に勤務している獣医さんということしか分からなかったが、このサイトに、全国から寄せられた「推薦動物病院」リストがあり、そこにうちの近所の麻生獣医科医院も載っていた。
タヌやシロのとき、ずいぶん近所の獣医さんを巡ったが、その病院は知らなかった。
サイトオーナーにメールで相談したところ「胃に毛玉などが詰まっているか、歯の異常で食べられないかのいずれかだと思いますが、とにかく今すぐ、近所の獣医さんへ電話して連れて行くことです。一刻を争います」という迫力のあるお返事をいただいた。
このメールに後押しされて、その日のうちに麻生獣医科医院に連れて行った。
麻生獣医科医院の上田院長は、僕より少し年下だろうか。非常にていねいに説明をしてくれた。
「胃に何か詰まっています。3週間食べていないとなると、薬を処方していく余裕がないんじゃないかと思います。胃を開いて異物を取り出すほうが早いと思いますが、体力が持つかどうか……」
悩んだが、その方法を選んで、そのまま入院。即日開腹手術となった。

ゴロはなんとか手術に耐えてくれた。
胃の中からはぼそぼそになった未消化の異物が出てきたが、その中にはカーテンの切れ端も見えていた。

これがゴロにとって、最初の試練だった。
あのときメールで「今すぐ獣医さんのところへ!」と返信してくださり、サイトに、麻生獣医科医院の情報も掲載していた「あなたがウサギに出来ること」の獣医さんは、その後、独立し、今は富山県高岡市で「アレス動物病院」を開業している。
通称・ダックス先生。
ダックス先生と麻生獣医科医院の上田院長の二人が、ゴロの命の恩人になった。


2000年12月27日。開腹手術後のゴロ


開いた胃から取り出された異物。カーテンの切れ端も入っていた
その後、ゴロの奥歯が斜め方向に伸びてしまう異常が見つかり、麻生獣医科医院には、その後、10年以上お世話になることになった。
歯が正しく噛み合わないため、奥歯の先が尖って伸びて、頬に突き刺さる。そうなると痛くて噛めなくなるので食べなくなる。麻酔をかけて歯を削る。
……その繰り返しが10年続いた。一体、何回麻酔をかけたことだろうか。生涯、これだけ麻酔をかけられたウサギも、そう多くはないだろう。
ゴロは毛が非常に柔らかく、毛玉ができると胃壁にへばりつくのか、毛玉対策もずいぶん大変だった。
アメリカで売られている人間用のパパイヤ酵素を使ったり、上田院長の調合による整腸剤を飲ませ続けたり、えらく金がかかるウサギになってしまった。
越後の、すぐに廃業したショッピングセンターで4700円で売られていた雑種のウサギに、生涯かかったお金は100万円をくだらないと思う。保険がきかないのが痛かった。

2001年1月5日。手術後1週間、ベランダでひなたぼっこしながら療養中


2001年7月20日。3度目の夏を迎えた


最初のピンチを無事切り抜けた


2001年9月10日。この頃はまだ籐製の籠をバラバラにするほど歯が丈夫だった

ゴロがきてから、僕の生活も少しずつ変わっていった。
副業は、最初に投資した100万円近いダイレクトメール作戦が完全に失敗して、痛いスタートだったが、少しずつ注文も増えて、忙しくなった。
2000年から上智大学の非常勤講師という肩書きで、年に2、3回だけ母校の教壇に立つようになった。毎年、最後の授業はKAMUNAの教室ライブをしている。90分の授業でまるまるギターデュオのライブ。
最初は「それはちょっと……」と言われたが、学生のウケがよく、2年目からは「あれを必ずやってください」と頼まれるようになり、やめられなくなった。それが10年続き、今年は11年目になる。

小説は出版してくれる版元がなくなり、未発表が溜まる一方になったが、朝日新聞社のasahi.comにコラムを連載するようになってからは、岩波や講談社からも声がかかり、新書を何冊か書かせてもらえるようになった。
生きるためにはなんでもしなければならない。デジタル文章術やデジカメ撮影術というジャンルも開拓した。
ゴロがきた1999年当時には、パソコンはまだWindows98が出たばかりで、不安定な上にまだまだ高価な機械だった。デジカメは640×480画素(30万画素、VGA)モデルがようやく標準になり、1024×768(78万画素、XGA)が撮れるデジカメは高級機だった。その10倍以上の1000万画素CCDなどというものがすぐに出てくるとは、まだ誰も予想していなかった。
上の写真は、OlympusのC2000という高級機(買った当時、実売価格で8万円以上した)で640×480モードで撮ったもの。F2.8、1/10秒。暗い室内でもきれいに写っている↓。

デジカメ撮影術の本は、3冊出したが、ゴロはモデルに大活躍した。
ただ、全身が真っ黒なので、顔の表情をしっかり写すのはいつも苦労させられた。


2002年8月8日。4年目の夏を越後で


2002年8月8日。得意の寝そべりポーズ


2003年4月30日。この写真はデジカメ撮影術の本にも載せた記憶がある


2004年3月31日。この頃はすでに定期的に歯切りをしなければならなかった


2004年4月20日

5歳になった頃からは、毛玉トラブルや歯切りの回数が増え、目やにも目立ち始めた。ああ、歳をとったなあ。5歳か。そろそろ寿命かなあと思っていた。
歯切りのために麻酔をかけられるたびに、このまま生きて戻ってこないかもしれないと覚悟を決めていた。
助手さんも僕も、ゴロの寿命を最初は5年を目標に置いていた。冗談で「あと5年は大丈夫」なんて言っていたものだが、まさか本当にあと5年以上生きるとは思っていなかった。

2004年10月23日。
中越大地震。ゴロと出逢った越後の地で、十数年かけてこつこつと手を入れ、永住に向けて準備していた家が一瞬にして崩壊した。

このまま尻すぼみの人生にはしたくない。そう言い聞かせながら、11月は移転先を探し、年末に阿武隈の地へ引っ越しをした。えらくテンションの上がった一か月だった。助手さんは血圧が上がり、ひどい頭痛を起こして倒れた。


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