10/06/24

追悼ゴロ

2010年6月23日、午後8時50分。
ゴロがとうとう死んでしまった。
最後の数日間は、時折、ぎゃーという悲痛な叫び声をあげて脚をばたつかせていた。そのたびに飛んでいって、頭を撫でて声をかける。するとすっと落ち着いて、穏やかな顔になる。
死神を見ていたのだろうか。
腕の中に抱いてやると、荒い息がすーっと収まっていき、眼を細めて安心した顔になる。
それの繰り返しだった。
「だっこ紐みたいなので、ゴロをぶら下げて仕事するしかないんじゃないの?」と助手さん。
さすがにそれはきついので、最後はバスケットに入れて仕事机の横に置いておいた。
で、ふと気がつくと、動いていない。
触るとまだ普通に暖かく、今まさに、長すぎるフェイドアウトで終わっていくところだった。

死は寂しい。
死んでいくもののすぐ横では、世界がいつもと同じように動いている。
一人だけ、この世界から抜けていく。


1999年春生まれのゴロは、11年と3か月ほどの生涯だった。
驚異的な生命力、特に心臓と肝臓が強くて、これまで何度も死の危機を乗り越えてきた。
そんな一見不死身のゴロも、歯の衰えには勝てなかった。
もともと歯がウィークポイントで、半年に一度のペースで獣医さんに奥歯を削ってもらわないと生き延びられない運命だったが、最後は、歯が根元からボロボロになり、あごが腐っていった。
これは長生きなウサギの宿命だそうだ。
人間なら総入れ歯にすることもできるが、ウサギはそうはいかない。歯があごの骨とがっちりつながっているため、抜くこともままならないし、歯がだめになるとあごが炎症を起こして化膿していく。
そうなると、頬に穴をあけて膿を出したり、抗生剤で炎症を抑えたりといった対処療法しかできないらしい。

11年以上生きたのだから、誉めてあげるしかない。

ゴロと出逢ったのは、僕が鬱病に苦しみ、そこから抜け出そうとしていたときだった。
8年一緒に暮らしたタヌが死に、そこから一気に仕事も家庭もガタガタになった。
僕が苦しかったとき、ゴロはいつもそばにいた。
ありがとう、という言葉しか思いつかない。

1999年ゴールデンウィーク前、越後にて

ゴロと出逢ったのは1999年のゴールデンウィーク前。
小千谷のアイリータウンというショッピングセンターの玄関前だった。
ケージに入れられた子ウサギが2羽。白いのと黒いの。
タヌが死んでかなり経ったけれど、もう生きものを飼うのはしんどいなあと思っていた。
相当な覚悟がいる。
特にウサギは、買ってきたその日に死んでしまったり、猫に襲われて悲惨な最期を遂げたり、今まで何度もひどい別れ方をしてきた。
ウサギは個体差が大きい。ひ弱なウサギはすぐに死んでしまう。反応が鈍くてつまらないウサギもいる。
生命力が強くて、頭がいいウサギ……ゴロを見たとき、あ、この子ならもしかして……と思った。
チビなのに、目つきが座っていて大物感が漂っている。物怖じしないふてぶてしい態度も気に入った。
売り場のおばちゃん曰く。
「いっぱいいたんだけど、2匹だけになっちゃった。でも、この黒い子は毛が柔らかくて気持ちがいいのよ」。
確かに柔らかくて、気持ちがいい。柔らかすぎて不安なほどだった。
小さすぎるのも心配だった。後から学んだことだが、ウサギをこんな小さな時期に売ってはいけないのだ。ある程度大きくなるまでは親のおっぱいを十分に飲ませて免疫力をつけさせることが大切らしい。
与えているのも、繊維が少ない、甘味料が入っているような固形のラビットフードで、これもよくなかった。ゴロが生涯苦しんだ歯の異常は、赤ん坊のときの環境によるものではなかっただろうか。
うちに来てからでも、すぐに干し草中心の食事に替えていれば、もしかすると歯の異常も出なかったかもしれないと思い、後悔している。

こんなに小さかった


この写真を見て「ウサギ?」と訊かれたこともある

1999年のゴールデンウィーク中、KAMUNAの相方・吉原センセ一家が越後に遊びに来た。娘二人は小学校に上がる前だったと思う。子供がかまいすぎてゴロが疲れないかと心配したものだ。
その後、約300kmを移動して百合丘へ。移動の負担も心配だったが、ゴロは車での移動には強かった。
生涯で何万キロ移動したことになるだろうか。越後と百合丘で数十往復、阿武隈時代に入っても数え切れないくらい往復している。阿武隈定住後も、歯が伸びるのを定期的に切るために、何度も百合丘まで戻った。一生でこんなに移動したウサギは珍しいだろう。

1999年。百合丘にて


活発で、少し目を離すといろんなところに入り込んでいた


カーテンに頭隠して……の図↑。しかし、このカーテンが後に命取りになった
1999年はゴールデンウィークを越後で過ごした後、夏にまた越後へ。
仕事がなく、鬱病からの脱出で苦しみながら、副業を立ち上げた年だった。
人生、こんなはずではなかった、という気持ちを抑え込むのが大変だった。とにかく生きなくては、と。
マイナス方向の思考が始まると、深呼吸をして、考えないようにする。目の前の作業にのみ集中する。
Japan Computorだったか、どこかの倉庫の二階で社長と社員一人でやっている会社のオリジナルノートパソコンを買って、発熱するキーボードで掌を火傷しながら、毎日作業をしていた。
この年の夏は、一人で越後にこもっていたが、ゴロも一緒だった。

1999年7月25日、越後にて。白いボンボンのようなものが目立っていた


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